伝記
ミーラーン・シャーは、1366年に生まれたティムール朝の王族である。王朝の創始者ティムールの四人の息子のうち三男で、母は側室のミンリチェクである。ムガル帝国の創始者バーブルは、ミーラーン・シャーの玄孫にあたる。1376年に兄のジャハーンギールが亡くなると、ティムールはその妻だったソユン・ベグをミーラーン・シャーの妻とした。チンギス家の王女オルン・スルターンも妻とした。
1380年、14歳のミーラーン・シャーは、征服に先立ってティムールからホラーサーン地方の統治を命じられた。この地を支配していたカルト朝は、1381年のヘラート包囲ののちにすぐ服属した。1383年にヘラートの住民が反乱を起こすと、ミーラーン・シャーはこれを鎮圧し、反徒の頭蓋骨を積み上げて塔を建てた。ヘラートを太守の都とした。数年後には、カルト朝の最後の人物ピール・ムハンマドを、自分が開いた宴の席で殺した。のちに、飲みすぎのせいだったと説明したという。1386年の冬、ティムールのアゼルバイジャン侵攻で、黄金のオルダのトクタミシュの軍が先鋒を破ると、ミーラーン・シャーは仇を討つよう命じられ、敵軍を破ってデルベントまで追った。1387年の三年戦役では、黒羊朝が支配するムスとクルディスターンを攻撃した。1389年にはトゥースの総督が独立をはかったため、包囲して町を略奪し、破壊した。
1393年からはアゼルバイジャンの総督に任じられ、旧イルハン朝の領地、すなわち北ペルシアとトランスコーカサスの全域を領地とした。バグダードやタブリーズもそこに含まれる。善政を敷いたと伝えられる一方で、落馬ののち精神に異変をきたし、破壊的な振る舞いが目立ったともいわれる。1394年には、ティムールと対立していたスーフィーの一派フルーフィー派の創始者ファズルッラー・アスタラーバーディーの逮捕を命じられた。伝説では、ミーラーン・シャーが自らこれを処刑した。このためフルーフィー派の信者はティムール家を特に憎み、ミーラーン・シャーを「蛇の王」マーラーン・シャーとあざけった。
ティムールがインド遠征から帰って間もなく、ミーラーン・シャーは反乱を起こした。落馬による精神の異変が原因ともいわれるが、一族の最年長者でチンギス家の王女を妻とするミーラーン・シャーは、自分こそ後継者と考えており、ティムールが孫のムハンマド・スルターンを後継者に決めたことに反発したのが実情と考えられる。反乱の鎮圧がきっかけで、七年戦役と呼ばれる西方の軍事行動が始まった。ミーラーン・シャーは統治権を取り上げられた。1403年、ティムールは西イランを息子たちに分け、ハリール・スルタンにアルメニアとグルジア、ウマルにアゼルバイジャン、アバー・バクルに西イランとクルディスターンの統治を命じた。ミーラーン・シャーはアバー・バクルに同行した。
1405年にティムールが亡くなると、ハリールはサマルカンドに入り、最年長のミーラーン・シャーに後継者の資格があると考えて、使者を送った。呼びかけに応じてマー・ワラー・アンナフルに向かったが、異母弟のシャー・ルフに妨げられて、アゼルバイジャンに引き返した。西イランに戻るとソルターニーイェを奪ったが、ミーラーン・シャーと息子のアバー・バクル、ウマルは互いに争い、在地の勢力の反撃を防げなかった。1406年10月にアゼルバイジャンは黒羊朝に占領された。1407年から08年にかけて、ミーラーン・シャーとアバー・バクルは奪回を試みたが、黒羊朝の君主カラ・ユースフに敗れた。1408年4月21日、殺された。
同じ年に亡くなった人物
- 足利義満 (1408年没)
- ヘンリー・パーシー (初代ノーサンバランド伯) (1408年没)
- ヨハネス7世パレオロゴス (1408年没)
- ハイダル・アームリー (1408年)
- ベアトリス・デ・ポルトゥガル (カスティーリャ王妃) (1408年没)
同じ地域に関係する人物
- イスマーイール1世 (1524年没)
- Al-Baydawi (1286年没)
- ラシードゥッディーン (1318年没)
- ムスタルシド (1135年没)
- Iskandar Beg Munshi (1634年没)