伝記
イスマーイール1世は、1487年7月17日に、アルダビールで生まれたサファヴィー朝の建国者で、在位は1501年から1524年である。父はサファヴィー教団の教主ハイダル、母は白羊朝の君主ウズン・ハサンの娘アーラム・シャオであった。祖父ジュナイドが教主だったころ、教団は世俗の勢力にかわって政治権力を得ようとする志向をもつようになり、アゼルバイジャンを支配していた白羊朝は、婚姻で教団と同盟を結ぼうとした。両家の縁はこうして結ばれたが、やがて白羊朝は教団の影響力を恐れて攻撃し、祖父ジュナイド、父ハイダル、兄シャイフ・アリーは白羊朝との戦いで命を落とした。
1494年に兄が獄死すると、イスマーイールが教主の地位に就き、カスピ海南岸のギーラーン地方に身を隠して、現地の有力者の保護を受けた。白羊朝が政治的な安定を失った1499年、潜伏地のラシュトを出発し、アナトリア各地のキジルバシ(トルコ系遊牧民の教団信徒)に決起を促した。集合地のエルズィンジャンには7,000人が集まり、彼らは「無謬の救世主」と仰ぐイスマーイールに無私の忠誠を誓ったという。軍を率いて東へ進み、各地で白羊朝の軍に勝利し、1501年の秋に白羊朝の首都タブリーズに入城した。そこのモスクでシーア派の一派である十二イマーム派の信仰を宣言したが、住民の3分の2はスンナ派であり、受け入れられるか不安視する声もあるなかで、決意を貫いた。この入城をもってサファヴィー朝の成立とみなすのが一般的である。即位後は古代ペルシアの伝統にならい、王を地上における神の影と見なして「シャーハンシャー(王の中の王)」を名乗った。1508年には最後の白羊朝の君主ムラードを倒してバグダードを制圧し、白羊朝を滅ぼした。
東方では、ウズベクのシャイバーニー朝が勃興していた。君主ムハンマド・シャイバーニーとは書簡で互いの信仰を非難し合い、1510年の秋にホラーサーンへ進軍した。シャイバーニーの軍がメルヴに立て籠もると、退却したと見せかけて城内から誘き出し、伏兵で大勝し、司令官シャイバーニーは戦死した。彼の首は金箔を貼られて酒杯にされ、オスマン朝のスルターン、バヤズィト2世のもとへ送られた。
続いてオスマン朝との対立が深まった。1512年に即位したセリム1世は、アナトリアのシーア派を弾圧し、処刑された人は4万人にのぼるとされる。1514年8月23日、チャルディラーンの平原で両軍は衝突し、オスマン軍の大砲と鉄砲によってサファヴィー軍の騎兵は破られ、イスマーイールは負傷して身代わりを立て戦場を離れた。妻もオスマン軍に捕らえられた。戦いの前には、夜襲を勧める将軍と正面決戦を主張する太守とで意見が割れたが、イスマーイールは正面決戦を選んだ。それまで自ら指揮した戦いで敗れたことがなく、この敗戦は「無謬の救世主」としての神性を揺るがせ、キジルバシとの関係を変えた。以後は外への軍事行動を控え、政務を大臣ミールザー・シャー・フサインに委ねたが、ペルシア語の年代記は飲酒と狩猟にふけったと伝え、オスマン朝の報告は軍備を整えていたと記すなど、記述は食い違う。
イスマーイールはハターイー(「罪人」の意)の筆名で詩を作り、アゼルバイジャン語による文学に貢献した。約1,400のアゼルバイジャン語の詩と、50ほどのペルシア語の詩が現存する。1524年に世を去り、アルダビールの教団の聖廟に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- クリストバル・デ・オリド (1524年)
- 唐寅 (1524年没)
- ピエール・テライユ (1524年)
- ジャン・ジャコモ・カプロッティ (1524年没)
- トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公) (1524年没)
同じ地域に関係する人物
- バイドゥ (イルハン朝) (1295年没)
- ラシードゥッディーン (1318年没)
- アウハディー・マラーギー (1330年代没)
- テグデル (1284年没)
- マフムード・シャベスタリー (1320年没)