HISTORICAL PERSON · 1408年没

ヘンリー・パーシー (初代ノーサンバランド伯)

北部貴族としてスコットランド国境の警備を担い、1399年にボリングブルックに寝返ってリチャード2世廃位に貢献した。のちヘンリー4世に二度反旗を翻して敗れ、亡命先から戻った1408年に敗死した。

生涯
1408年没
死亡地
イギリス連邦(カークリーズ / ウェスト・ライディング)
出生地
イギリス連邦(スカーバラ城)
出典
世界地図
イギリス連邦(カークリーズ)

伝記

ヘンリー・パーシーは、1341年11月10日に生まれた初代ノーサンバランド伯で、14世紀後期から15世紀前期のイングランドの貴族である。第3代パーシー男爵ヘンリー・ド・パーシーと、メアリ・オブ・ランカスターの長男として生まれた。母はヘンリー3世の孫にあたるランカスター伯ヘンリーの娘で、ヘンリー・パーシーもヘンリー3世の子孫にあたる。

1358年、第2代ネヴィル男爵ラルフ・ネヴィルの娘マーガレットと結婚し、4人の息子と1人の娘をもうけた。長男が「ホットスパー」と呼ばれるハリー・パーシーである。若くして1362年にスコットランドとの国境地帯の守護職に任じられ、スコットランド政府と交渉する権限をもった。1367年2月には、国境地帯の城と要塞すべての監督を任された。ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントを支持し、1376年12月に元帥の職を与えられたが、翌1377年にこれを手放した。ロンドンの暴動では、ゴーントとともにケニントンのジョーン・オブ・ケントのもとへ避難した。1377年、エドワード3世の孫リチャード2世の戴冠式で元帥の役を務め、ノーサンバランド伯に叙された。1381年に、トマス・ド・ルーシーの娘モードと再婚し、その兄弟の領地コッカマス城などを相続した。1383年から1384年には北海の提督を務めた。

しかし、リチャード2世に辺境守護職を取り上げられたうえ、1397年に、ライバルで最初の妻の甥にあたるラルフ・ネヴィルがウェストモーランド伯に引き上げられると、これに反発した。1399年、リチャード2世の従弟ヘンリー・ボリングブルックが決起すると、息子のホットスパーやウェストモーランド伯らとともにそれを支持し、リチャード2世の廃位に力を貸した。即位したヘンリー4世は、恩賞としてパーシーをイングランドの大元帥に任じ、マン島の支配権を与えた。パーシーとホットスパーは、ウェールズで反乱を起こしたオワイン・グリンドゥールの鎮圧を任されたが、反乱者との和平を試みたことは、王の承認を得られなかった。

1402年9月、パーシー父子はホミルドン・ヒルの戦いでスコットランド軍を迎え撃って勝ち、ダグラス伯を捕らえた。しかしヘンリー4世は捕虜の身代金を取らせず、また姻戚で、グリンドゥールの捕虜になっていたサー・エドマンド・モーティマーの解放を王が拒んだことから、父子は王と決別して、ダグラス伯やグリンドゥールと組んだ。1403年のシュルーズベリーの戦いでは、弟のトマス・パーシーとホットスパーが戦死した。ヘンリーは直接反乱に加わらなかったとして爵位は守られたが、大元帥の職は失った。1405年には、グリンドゥール、モーティマー家と三者協定を結んで、イングランドを分けようとした。同じ年、ヨーク大司教リチャード・スクループ、ノーフォーク伯トマス・モーブレーと呼応し、マーチ伯エドマンド・モーティマーを王位継承者に立てて再び王に刃向かったが、敗れてスコットランドへ亡命した。このときに爵位と領地は取り上げられた。

1408年、イングランドへ戻ってヨークシャーに攻め込んだが、ブラムハム・ムーアで敗れて死んだ。2月20日のことである。首は切り落とされて、ロンドン橋にさらされた。ともにスコットランドへ逃れていた孫のヘンリー(ホットスパーの遺児)は、1416年にヘンリー5世から爵位を与えられ、復権した。シェイクスピアの『リチャード2世』と『ヘンリー4世』の第1部、第2部に登場する。

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