伝記
アル=バイダーウィーは、13世紀のイランで活動した法学者、神学者であり、コーランの注釈者である。ナースィルッディーン・アル=バイダーウィーとも呼ばれ、カーディー・バイダーウィーの名でも知られる。南イランのファールス地方にある小さな町バイダーの出身で、名前はそこに由来する。生まれた年は分からないが、経歴から考えて、サルグル朝のアタベク、アブー・バクル・イブン・サアドの治世のうちに生まれたと推定されている。
ファールス地方は、1148年からサルグル朝が支配していた。トルコ系の一族で、セルジューク朝やホラズム・シャー朝、モンゴルに名目上は従いながら、1282年に滅びるまで統治を続けた。サルグル朝はモンゴルとうまく折り合ったので、この地域は学者たちが好んで集まる安全な土地となった。アブー・バクルは病院や高度な宗教施設をいくつも建てさせ、文化が栄えた。バイダーウィーもここに来た学者たちから学んだ。多くのファールス人と同じく、彼はスンナ派のシャーフィイー派の法学を学んだ。教育については不明な点が多く、歴史家のヤーフィイーによれば、父のウマルが教えたという。父は、ガザーリーまで師弟関係がたどれるシャーフィイー派の学者の系譜に連なっていた。
のちにバイダーウィーは、タブリーズのスーフィーの聖者、シャイフ・ムハンマド・クンジャーニーに弟子入りした。こんな話が伝わる。あるときバイダーウィーは、アルグン・ハンのもとでファールスのカーディー、つまり裁判官の職に就きたいと思い、シャイフに口添えを頼んだ。アルグン・ハンはシャイフを高く敬い、毎週木曜日に訪ねていた。ある日、訪れたハンにシャイフは、「あるペルシア人の学者が、祈りの敷物ほどの地獄の一片を私に乞うた」と語った。ハンが説明を求めると、シャイフはバイダーウィーがカーディーの職を望んでいると答えた。ハンはシャイフの推薦でバイダーウィーをその職に任じたが、バイダーウィーはこの言葉を聞いて深く悩み、戒めと受け止めて悔い改め、望んでいた地位を諦めた。やがて世俗への関心を失い、タブリーズに定住して、残りの生涯をそこで過ごした。コーランの注釈も、このシャイフの示唆を受けて完成させたという話がある。
主著は、コーランの注釈『啓示の光と解釈の秘密』である。ザマフシャリーの『カッシャーフ』を要約して改めたもので、『カッシャーフ』は学識に富むが、ムウタズィラ派の考え方に影響されていた。バイダーウィーは、それを反駁したり省いたりして改めようとした。ほかにファフルッディーン・ラーズィーらの注釈も参考にした。ペルシア語で書いた歴史書『諸史の秩序』は、イランの民族的な歴史を扱った最初の本とされる。仏教徒だったイラクの支配者アバカ・ハンに改宗を促し、イルハン朝の統治を正当化する狙いもあったらしい。神学の分野では、カラーム(神学)の論理を論じた著作もある。
バイダーウィーは、晩年を神秘的な修行に過ごし、1292年の秋にタブリーズで亡くなったとされる。墓はチャランダーブの墓地にあり、師の聖者の廟のそばにあった。ドイツのフライシャーが、1846年から1848年にかけて、主著を校訂した。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン1世 (ブルターニュ公) (1286年没)
- アレグザンダー3世 (スコットランド王) (1286年没)
- エーリク5世 (デンマーク王) (1286年没)
- ソフィア・ア・ダンマーク (1286年没)
- ムールベケのグイレルムス (1286年)
同じ地域に関係する人物
- テグデル (1284年没)
- マフムード・シャベスタリー (1320年没)
- アルカス・ミールザー (1550年没)
- ラシードゥッディーン (1318年没)
- ミーラーン・シャー (1408年没)