伝記
足利義満は、室町幕府の第3代将軍である。延文3年(1358年)8月22日、第2代将軍足利義詮の子として、京都の幕府政所執事伊勢貞継の屋敷で生まれた。祖父の尊氏が亡くなってちょうど100日目のことだった。母は側室の紀良子で、幼名を春王という。長男ではなかったが、嫡男として扱われた。康安元年(1361年)12月、細川清氏や楠木正儀ら南朝方に京都を占領され、父の義詮が後光厳天皇を奉じて近江国へ逃れたとき、春王はわずかな家臣に守られて建仁寺に逃れ、赤松則祐の居城である播磨の白旗城へ避難した。その後しばらく則祐に養育された。京都に戻ると、新しく管領となった斯波義将に養育され、1366年12月、後光厳天皇から義満の名を賜り、従五位下に叙せられた。
1367年11月、父の義詮が重病となり、細川頼之を管領として義満の後見を託して、政務を譲った。12月7日に義詮が亡くなり、義満はわずか10歳で将軍家の家督を継いだ。1368年に元服し、1369年12月30日に征夷大将軍となった。頼之をはじめ、足利一門の守護大名が幕政を主導するなかで、義満は帝王学を学んだ。頼之は応安大法を実施して土地支配を固め、九州には今川貞世と大内義弘を派遣して、南朝の勢力を弱めた。1374年に日野業子を正室に迎え、1378年には邸宅を北小路室町に移して幕府の政庁とした。この邸は「花の御所」と呼ばれ、義満は「室町殿」とも呼ばれた。同じ年に右近衛大将、続いて権大納言に任じられ、公家社会の一員として朝廷に出仕した。1379年には、反細川派の守護大名である斯波義将らに邸を囲まれ、頼之の罷免を求められて、頼之は罷免された。同じ年の8月には、興福寺の大衆が神木を奉じて洛中に強訴した。義満は源氏であることを理由に出仕を続け、1380年に行事を大々的に再興して、これを失敗に終わらせた。1383年には武家として初めて源氏長者となり、准三后の宣下を受けて、公家と武家の頂点に上り詰めた。
1388年から1389年にかけて、反細川派の重鎮だった土岐頼康、山名時義が相次いで亡くなると、義満は土岐氏の内紛につけ込んで土岐康行を討った。1391年には、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称された山名氏清を挑発して挙兵させ、12月に討伐した。これが明徳の乱である。1392年には、大内義弘らを仲介に南朝方と交渉を進め、後亀山天皇が持つ三種の神器を北朝の後小松天皇に渡させて、56年にわたる朝廷の分裂を終わらせた。1395年1月に将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居したが、大御所として政治の実権を握り続け、従一位太政大臣にまで昇進した。武家で太政大臣になったのは、平清盛に次いで2人目である。1395年6月には出家して道義と号した。1399年には、大内義弘を挑発して挙兵させ、応永の乱で討伐して、西日本で義満に対抗できる勢力を排除した。
義満は若いころから明に強い憧れを抱いていた。改元の議では、明の太祖の洪武帝の治世にあやかって、「洪」の字を使うよう働きかけたが、公家が不吉だと反発して実現せず、応永の元号が用いられた。義満は、明との正式な通交を望んでいた。しかし1374年の使者は、南朝の懐良親王を日本国王として認めていた明に受け入れられず、交渉は実らなかった。義満は北山第を造営し、その中心に鹿苑寺、すなわち金閣を建てて北山文化を開花させた。南北朝の合一を果たし、有力な守護大名の勢力を抑えて、幕府の権力を確立し、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いたとされる。1408年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ミーラーン・シャー (1408年没)
- ヴィルヘルム1世 (ベルク公) (1408年没)
- ヴァランティーヌ・ヴィスコンティ (1408年没)
- ベアトリス・デ・ポルトゥガル (カスティーリャ王妃) (1408年没)
- ジョン・ガワー (1408年没)