HISTORICAL PERSON · 1958年没

クリントン・デイヴィソン

アメリカの物理学者。1927年にガーマーとニッケル単結晶による電子線の回折を確認してド・ブロイの物質波の予測を裏付け、1937年にノーベル物理学賞を受賞した。

生涯
1958年没
死亡地
アメリカ合衆国(バージニア州 / シャーロッツヴィル)
出生地
アメリカ合衆国(ブルーミントン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(バージニア州)

伝記

クリントン・ジョセフ・デイヴィソンは、1881年10月22日にアメリカ合衆国イリノイ州ブルーミントンで生まれた物理学者である。父ジョセフ・デイヴィソンはオハイオ州出身の職人で、母メアリー・カルバートはペンシルベニア州出身の学校教師だった。1902年にブルーミントン高校を卒業し、奨学金を得てシカゴ大学に入学した。ロバート・ミリカンのもとで学んだが、経済的な事情で学業を続けられず、就職したという。ミリカンの推薦により、1905年にプリンストン大学で物理学の講師に採用された。教えながら夏の期間などを使って学位の要件を満たし、1908年にシカゴ大学の学士号を得ている。プリンストンでは教壇に立ちながらオーウェン・リチャードソンのもとで博士の研究を行い、1911年に、アルカリ土類の塩からの陽イオンの熱放出に関する論文で博士号を得た。

プリンストン時代、指導教授のリチャードソンを訪ねてきたその妹シャーロット・サラ・リチャードソンと知り合い、博士号を得た同じ1911年に結婚した。シャーロットは数学者オズワルド・ヴェブレンの義妹でもあった。夫妻の間には、オーウェン、ジェームズ、リチャード、エリザベスの4人の子が生まれ、リチャードは物理学者になった。学位を得た後は、カーネギー工科大学の物理学科で講師を務めた。1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると、ウェスタン・エレクトリック社の技術部門に移って戦争に関わる研究に従事した。戦争が終わると、基礎研究の自由が保障されるという保証を得たうえで、同社に残った。教える仕事が研究の妨げになると感じていたからだとされる。ウェスタン・エレクトリックは、のちにベル電話研究所となる。1925年に新設されたベル研究所の技術スタッフとなり、1946年に退職するまで勤めた。

ベル研究所でデイヴィソンらは、ド・ブロイが物質波の考え方を発表する前から、ニッケルなどの金属に電子線をあててその反射を調べる実験を続けていた。そしてニッケルを熱処理して再結晶させたとき、回折現象が顕著に表れることを発見した。1927年、同僚のレスター・ガーマーとともに、ニッケルの単結晶の表面で電子が回折することを確認した。この実験は、物質の粒子が波の性質を持つというルイ・ド・ブロイの仮説を裏づけるもので、量子力学の中心的な考え方の一つを確かめるものだった。電子の波長が初めて測定され、その値はド・ブロイの式とよく一致した。1930年代からは、電子線の技術や応用面の研究に取り組んだ。

その業績により、1928年にアメリカ科学アカデミーのコムストック物理学賞を、1931年にエリオット・クレッソン・メダルを、1935年に王立協会のヒューズ・メダルを受けた。1937年には、別に電子線の回折実験に成功したジョージ・パジェット・トムソンとともにノーベル物理学賞を受賞した。ベル研究所を退職した翌1947年にヴァージニア大学の客員教授となり、1954年に二度目の退職をするまで務めた。1958年2月1日、ヴァージニア州シャーロッツヴィルで76歳で亡くなった。月の裏側のクレーターには、1970年に彼の名がつけられた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物