HISTORICAL PERSON · 1958年没

ピウス12世 (ローマ教皇)

第260代ローマ教皇。ローマの名門「黒い貴族」の家に生まれ、教皇庁の外交官としてドイツで働き、1939年から1958年まで在位した。

生涯
1958年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / カステル・ガンドルフォ)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ピウス12世は、1876年3月2日にローマで生まれた第260代ローマ教皇である。本名はエウジェニオ・パチェッリで、パチェッリ家は教皇領政府で代々要職を占めた名門「黒い貴族」の家系だった。祖父マルカントニオは副内務大臣を務め、バチカンの日刊紙『オッセルヴァトーレ・ロマーノ』の創刊に関わった。父は教皇庁の顧問弁護士で、伯父はレオ12世の財政顧問だった。1899年4月に司祭に叙階され、枢機卿のもとで働いたのち、ヴァイマル共和政下のドイツで、バイエルン州と中央政府に対する教皇使節を務めた。1919年にバイエルンへ赴任していたころ、公用車を奪いに来た革命家に銃を突きつけられたこともあったという。

1917年にピウス11世によって枢機卿に挙げられると、すぐに枢機卿国務長官に就いた。外交分野で活躍し、プロイセンやオーストリア、ドイツ諸邦との政教条約の締結に大きく貢献し、ヨーロッパやアメリカ合衆国を頻繁に訪れた。1920年から1930年代にかけて教皇庁が多くの国と政教条約を結んだのは、19世紀以降断絶していた国家と教会の関係を正常化し、各国のカトリック信徒や学校を迫害から守るためだったとされる。1933年7月20日に、国務長官パチェッリの主導でナチ党政権下のドイツと結ばれた政教条約は、政権にお墨付きを与えたものとして後に大きな批判を招いた。ただし下交渉の大半は共和政時代に行われ、教会の権利保障と政治不干渉を約束し合うもので、反共目的で一致したものと解されている。しかしナチスは条約を無視してカトリックへの圧迫を続け、ピウス11世が回勅でナチス体制を批判することになった。パチェッリはその草案の修正を行っている。

1939年3月2日、欧州大戦が迫るなかで教皇に選ばれ、「ピウス12世」を名乗った。戦争が始まると、ベネディクトゥス15世にならってバチカンは「不偏」を主張した。しかし反共主義の立場から、独ソ戦の開始後に「無神論の勝利は長く続かない」と述べるなど、ドイツ支持ともみられる声明を出し、一部からは「ヒトラーの教皇」と呼ばれた。バチカンがユダヤ人迫害をはっきりと非難しなかったことは、戦後激しく批判された。一方、障害者の安楽死政策には「自然道徳律に反する」とたびたび抗議し、1942年12月のクリスマスにはラジオで、名指しは避けつつ人道と人種差別への反対を訴えた。賛同者は、イタリアの降伏後にドイツ軍がローマを占領すると多くのユダヤ人がバチカンで匿われたと指摘し、戦後にイスラエル政府が「諸国民の中の正義の人」賞を贈ったとも伝える。1963年に劇作家ホーホフートが戯曲『神の代理人』で戦争責任を告発して論争が起き、評価は今も分かれている。

1950年には聖母の被昇天を教義として宣言し、20世紀に不可謬権を行使した唯一の教皇となった。1951年にはビッグバン理論が創世記を裏付けるとする声明を出したが、理論の提唱者ルメートルが懸念して説得すると、二度と触れなかったという。戦後のイタリアでは、アメリカの要請を受けた教皇庁が左派政権の阻止に協力した。1958年10月6日に脳の発作で倒れ、同年10月9日に死去した。2009年12月には、聖人への段階の尊者とされることが内定した。

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