伝記
ロバート・セシルは、1864年9月14日にロンドンで生まれたイギリスの弁護士、政治家、外交官で、のちに初代セシル・オブ・チェルウッド子爵となった人物である。3度にわたって首相を務めた第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルの6番目の子、三男であり、アーサー・バルフォアとは従兄弟の関係にあった。13歳まで家庭で教育を受け、その後イートン・カレッジで4年間学んだが、自伝では、家庭で学んだ期間のほうがより高度で興味深かったと述べている。オックスフォード大学ユニバーシティ・カレッジでは、ディベートで名を上げた。1887年に23歳で弁護士の資格を得て、1889年にはエレノア・ラムトンと結婚した。この結婚は、これまでしたことの中で最も賢いことだったとよく語ったという。1887年から1906年にかけては、普通法の整備や大法院での仕事などに従事し、『商法の原理』という共著にも参加した。
1906年に保守党から立候補して庶民院議員に当選した。関税改革に反対する自由貿易論者で、1910年の二度の総選挙には落選したが、1911年にハートフォードシャーのヒッチンの補欠選挙に独立保守党員として当選し、1923年まで議員を務めた。第一次世界大戦が始まると赤十字で働き、1915年に連立政権が発足すると、1916年から1918年までバルフォア外相の下で副大臣となって、敵に経済的、商業的な圧力をかける方法を考えた。1916年9月には、戦争を避けるための提案を閣内に回覧し、1ページ目に国際連盟の創設を盛り込んだ。バルフォアが設けた外務省の役職で、国際連盟の構想を担当した。
大戦後の国際連盟が発足してから1946年に消滅するまでの約30年間、セシルの生活はほとんど国際連盟のために費やされた。パリ講和会議ではイギリスの国際連盟に関する代表を務め、日本が規約に人種差別撤廃の規定を盛り込もうとした際には強硬に反対し、この案は最終的に大統領ウィルソンによって退けられた。エスペランティストでもあり、1921年にエスペラント語を連盟の作業言語にする提案を書き、1922年には相互援助条約案を起草したが、いずれも廃案となった。1920年から1922年には南アフリカの代表を務め、1923年にはアメリカに5週間滞在して、連盟の意義を民衆に伝えた。1923年から1924年に王璽尚書、1924年から1927年にランカスター公領大臣を務めたが、1927年のジュネーヴの海軍会議で、政府が巡洋艦の削減に応じないまま会議を降りたことに抗議し、役職を辞任した。のちにフランスで世界平和連合や国際平和キャンペーンの運動を興して会長を務め、エチオピアへの侵攻やミュンヘン会談での宥和政策も批判した。
1918年から1944年にバーミンガム大学の総長、1924年から1927年にアバディーン大学の学長を務めた。1924年にウッドロウ・ウィルソン基金の平和賞を、1937年にノーベル平和賞を受けている。1946年春、81歳でジュネーヴの最後の連盟総会に出席し、結びの演説で「国際連盟は死んだ、国際連合万歳」と述べた。その後は貴族院議員となり、国連を支援しながら13年を生きて、1958年11月24日に亡くなった。相続人がいなかったため、爵位は途絶えた。
同じ年に亡くなった人物
- ビッグ・ビル・ブルーンジー (1958年没)
- 金枓奉 (1958年没)
- タイロン・パワー (1958年没)
- オスカー・フォン・プロイセン (1888-1958) (1958年没)
- カール・ラシュレー (1958年没)
同じ地域に関係する人物
- オースティン・フリーマン (1943年没)
- トマス・ベケット (1170年没)
- デービッド・フロスト (2013年没)
- パトリシア・ナッチブル (2017年没)
- Brian Murphy (2025年没)