HISTORICAL PERSON · 1870年没

ロバート・E・リー

南北戦争期のアメリカの軍人・教育者。陸軍士官学校の校長を務めた後、バージニアに帰郷して南部連合軍を率い、劣勢の北バージニア軍で北軍を苦しめたが、ゲティスバーグで敗れ、1865年に降伏した。

生涯
1870年没
死亡地
アメリカ合衆国(バージニア州 / レキシントン)
出生地
アメリカ合衆国(ストラトフォード・ホール・プランテーション)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(バージニア州)

伝記

ロバート・エドワード・リーは、1807年1月19日にバージニア州ウェストモアランド郡のストラットフォードで、アメリカ独立戦争の英雄ヘンリー・リーとアン・ヒル・カーター・リーの子として生まれ、1870年10月12日に没した。南北戦争の時代のアメリカの軍人・教育者で、南部連合の軍司令官として、物量や国力で圧倒的に強大だった合衆国側の北軍を大いに苦しめ、最終的には敗北したものの、アメリカ史上屈指の名将として評価が高い。1825年に陸軍士官学校に入学し、4年後に次席の成績で卒業した。職業軍人の道を歩み、1832年に少尉、1836年に中尉、1838年に大尉となった。妻は初代大統領ジョージ・ワシントンの義理の曾孫にあたる。1846年から1848年の米墨戦争に従軍して武勲を立て、1852年に母校の校長に任命され、3年後の1855年に中佐に昇格してテキサス州で数年を過ごした。1859年には、奴隷制反対活動家ジョン・ブラウンによるハーパーズ・フェリー蜂起事件の鎮圧を指揮している。

南北戦争の直前には大佐だったが、リンカーン大統領は陸軍総司令官ウィンフィールド・スコット少将の推薦で、北軍の司令官就任を要請した。しかしリーは、奴隷制には賛成ではなかったものの、郷里バージニアへの郷土愛などの理由から、1861年にサムター要塞の戦いの後、合衆国軍を辞してバージニアに帰郷した。南部ではバージニア州軍の司令官となり、1861年8月に南部連合国軍の大将に任命された。バージニア州西部の部隊司令官、カロライナ州沿岸の防衛司令官、ジェファーソン・デービス大統領の軍事顧問を歴任し、1862年6月、北バージニア軍の司令官ジョセフ・ジョンストンがセブンパインズの戦いで重傷を負うと、その後任に起用された。6月25日から7月1日まで連日ポトマック軍に攻撃を加え、優勢な敵にリッチモンド侵攻を断念させたこの七日間の戦いで名声を確立した。

リーはほとんど常に北軍より劣勢の軍を指揮し、補給の欠乏に悩まされながらも、大胆な機動と敵の意表をつく攻撃で、第二次ブルランの戦い、フレデリックスバーグの戦い、チャンセラーズビルの戦いなどで勝利をあげた。2度の北部侵攻作戦は、1862年のアンティータムの戦いと1863年のゲティスバーグの戦いで北軍に敗れた。ゲティスバーグ後にデービス大統領へ辞任を申し出たが、数で劣る北バージニア軍を率いられる将軍が他にいなかったため、却下された。1864年にユリシーズ・グラント中将が総司令官に就任し、北部の物量的優位を活用する戦略をとると、リーは防戦一方となり、首都リッチモンドの近郊まで後退した。1865年1月31日に南部陸軍総司令官に任命されたが、4月3日にリッチモンドが陥落し、アポマトックスで北軍に捕捉されて、4月9日にグラントに降伏した。部下の一部はゲリラ戦の継続を進言したが、戦争の決着はついていると感じたリーはそれを退け、兵士にも投降を呼びかけた。

戦後は恩赦され、1865年10月2日にワシントン大学(現在のワシントン・アンド・リー大学)の学長に就き、荒廃した南部の復興のため人材育成に尽力した。穏やかで人当たりのよい人物で、分権的な指揮を好み、前線に近い部下の判断に任せたが、攻勢に回ったときにはこの方式が機能しなかった。また奴隷制を「必要悪」として擁護していた。死後の1975年に、フォード大統領の承諾と米国議会によって米国市民権が回復された。近年は各地の像が奴隷制の象徴として撤去を求められている。

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