伝記
オットー・フォン・ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲンは、1319年か1320年ごろに生まれ、ナポリ女王ジョヴァンナ1世の4番目の夫となってターラント公となった人物である。ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン公ハインリヒ2世と、その最初の妃でブランデンブルク=シュテンダル辺境伯ハインリヒ1世の娘ユッタの長男であった。父ハインリヒ2世は、グルーベンハーゲン侯の初代ハインリヒ1世の三男である。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家は相続のたびに領地を分けたため、オットーはほとんど遺産を受け取れず、父と同じように国外に活路を求めた。幼いころから様々な君主に従って戦い、勇敢で命知らずの傭兵であったといわれる。
1339年にモンフェッラート侯ジョヴァンニ2世に仕え、19歳ほどでアスティの戦いに加わった。1352年にはフランス王ジャン2世に仕え、このころ、おそらく王の仲介で、バランゲー2世・デ・ビララグートの娘で、マヨルカ王ジャウメ3世の未亡人であったビオランテと結婚した。この結婚でかなりの財産を得て、グルーベンハーゲン家でもっとも裕福な一人とみなされた。まもなくイタリアに戻ると、ジョヴァンニ2世の3人の息子の後見人となった。1354年(1355年とも)にはローマで、カール4世の戴冠式に参列した。
ビオランテの死後、イタリアの遠征で将軍として高く評価されていたオットーは、教皇グレゴリウス11世からアルメニアの王太后マリアの夫として推薦されたが、実現しなかった。1376年にジョヴァンナ1世と結婚した。王の称号は得られなかったものの、ターラント公領、アチェッラ伯領、プロヴァンスのいくつかの城を受け取った。教皇グレゴリウス11世の死後、ナポリ王国は教皇ウルバヌス6世と対立教皇クレメンス7世の争いに巻き込まれ、オットーとジョヴァンナ1世はクレメンス7世の側についた。しかしクレメンス7世がアヴィニョンに逃れると、ウルバヌス6世はジョヴァンナ1世の退位宣告と十字軍をもって脅し、ナポリ王位をドゥラッツォ公カルロに与えて、1380年にローマで戴冠させた。カルロ3世は1381年にナポリを占領し、ジョヴァンナ1世を包囲した。オットーは弟(異母弟とも)のバルタザールとジョヴァンナ1世の解放を企てたが失敗し、ともに捕虜となった。ジョヴァンナ1世は王位を放棄しようとせず、1382年に首を絞められて殺された。
オットーは軟禁されたが、1384年に釈放された。シチリアに滞在したのちアヴィニョンへ向かい、ルイ1世・ダンジューの死後、後継者ルイ2世・ダンジューから軍の最高指揮権を引き継いだ。この軍で1387年夏、ルイ2世のためにナポリ王国を取り戻した。しかしクレメンス7世がオットーをナポリ王国の総督に任命しなかったため、彼は憤慨し、対立していたカルロ3世の側につき、その相続人ラディズラーオ1世の王位を宣言した。ナポリの再征服を試みたが失敗に終わり、1392年には再び捕虜となって、釈放のためアチェッラ伯領を手放さなければならなかった。晩年はターラント公領で隠遁生活を送り、1399年の3月か4月にフォッジャで亡くなり、同地に葬られた。若いころグルーベンハーゲンを離れて以来、故郷に帰ることはほとんどなかった。
同じ年に亡くなった人物
- ペトル・パルレーシュ (1399年没)
- イェレナ・グルバ (1399年)
- トマス・モウブレー (初代ノーフォーク公) (1399年没)
- ドミトリユス・アルギルダイティス (1399年没)
- テムル・クトルク (1399年没)
同じ地域に関係する人物
- Rogerius of Apulia (1266年没)
- フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝) (1250年没)
- リッカルド・カラペッレーゼ (1995年没)
- グナエウス・フルウィウス・ケントゥマルス・マクシムス (紀元前210年没)
- カルロ1世 (シチリア王) (1285年没)