伝記
カルロ1世は、1227年3月に生まれ、1285年1月7日に没したシチリア王(在位1266年〜1282年)で、のちにナポリ王(在位1282年〜1285年)となった。フランス王ルイ8世と王妃ブランシュ・ド・カスティーユの子で、ルイ9世の末弟にあたり、カペー系アンジュー家の祖である。シチリア王位に就くまでの活躍から、アンジュー伯シャルル、あるいはシャルル・ダンジューの名で呼ばれることが多い。父の死後に生まれた最後の子で、当初は聖職者の道を予定されていたが、1232年に兄たちが子なくして没したため、フランス中部の広大な所領の継承者となった。学問より詩や医学、法律に興味を示したという。
1246年、プロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世の末娘ベアトリスと結婚して、プロヴァンス伯領を継承し、翌1247年にはフランス王家からアンジューとメーヌ伯領を親王采地として受けた。しかし、プロヴァンスは法的には神聖ローマ帝国領で、マルセイユやアルル、アヴィニョンなどの都市は大幅な自治を享受していたため、彼のフランス風の集権的な支配に反発して反乱を起こし、完全に鎮圧するには1262年までかかった。1248年には、兄ルイ9世の第7回十字軍に加わってエジプトで勇戦したが、ともに捕虜となり、解放後はフランスに戻って、兄のアルフォンスや母ブランシュとともに摂政を務めた。1270年の第8回十字軍にも参加したが、自己の勢力拡大を狙ってチュニジアを攻撃するよう仕向けたため、ルイ9世が遠征先で病没する結果となった。
1252年に教皇インノケンティウス4世からシチリア王位を提示されたが、平和を願うルイ9世が許さず、話は立ち消えとなった。1258年にフリードリヒ2世の庶子マンフレーディがシチリア王となってローマを脅かすようになると、教皇はふたたび熱心に王位を持ちかけ、今度はルイ9世も承認した。1266年、教皇クレメンス4世からシチリア王として戴冠され、十字軍を称して、フランス中から兵を集めてイタリアに進撃した。同年のベネヴェントの戦いでマンフレーディを討ち死にさせてシチリアを占領し、1268年には、シチリア王位を求めて侵攻してきたコンラート4世の子コッラディーノを捕らえて処刑し、ホーエンシュタウフェン家を滅ぼして南イタリアの支配に成功した。
だが野望は止まらず、東ローマ帝国の征服をめざした。1267年にはアカイア公ギヨーム2世とヴィテルボ協定を結び、次男フィリップとギヨームの娘イザベルを結婚させて、1273年にはラテン皇帝の地位を相続し、1277年にはエルサレム王を称した。1277年に次男フィリップが、1278年にアカイア公ギヨームが男子なく没し、彼はアカイア公も兼ねた。1282年に再度の侵攻を目論んだが、東ローマ皇帝ミカエル8世が、アラゴンやジェノヴァと結び、重税に苦しむシチリア住民の反フランス感情を煽った。同年春に偶発的に起きたシチリアの晩祷事件への対応が遅れ、彼はシチリア全土を失い、アラゴン王ペドロ3世がシチリア王を宣言した。以後のナポリを拠点とする戦争でも成果は上がらず、1284年の海戦で長男のシャルル2世が捕虜となり、1285年に失意のうちに病死した。死後は、1288年に解放されたシャルル2世が後を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- フランチェスカ・ダ・リミニ (1285年没)
- ダウマンタス (リトアニア大公) (1285年没)
- クンフタ・ウヘルスカー (1285年没)
- Rutebeuf (1285年)
- フィリップ3世 (フランス王) (1285年没)
同じ地域に関係する人物
- グナエウス・フルウィウス・ケントゥマルス・マクシムス (紀元前210年没)
- アニェス・ド・ダンピエール (1288年没)
- オットー・フォン・ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン (1399年没)
- リッカルド・カラペッレーゼ (1995年没)
- イザベラ・オブ・イングランド (1241年没)