伝記
テムル・クトルクは、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)のハンである。チンギス・ハンの長男ジョチの十三男トカ・テムルの血筋を引く。1370年ごろに生まれ、1399年に没した。1397年から1399年まで、ハンの位にあったとされる。
父はテムル・ベクで、系譜はジョチの子トカ・テムルから、キン・テムル、アバイ、ノムカン、クトルク・テムルを経て父に至る。母は、ジョチ・ウルスの有力な部族長の娘であり、母の兄弟が、のちにノガイ・オルダの始祖として知られるエディゲである。つまりエディゲはテムル・クトルクの伯父にあたる。
テムル・クトルクは、遠縁の従兄にあたるトクタミシュ・ハンの宮廷に仕えたが、王位を奪おうと望んだとされる。トクタミシュはこの企てに気づき、殺そうとしたため、テムル・クトルクはティムールのもとへ逃れた。これは1388年より前である。同年のホラズム侵攻には、ティムール軍の先鋒を率いる4人の将の1人として加わった。1391年にも、トクタミシュに対するティムールの遠征とクンドゥルチャ川の戦いに加わった。ティムール軍が引き揚げたのち、テムル・クトルクと伯父のエディゲは、追加の兵を集めるという名目でジョチ・ウルスに残った。
ところが2人はティムールのもとへ戻らず、ジョチ・ウルスを奪おうとした。テムル・クトルクがハンに、ジョチ家でないエディゲが首席の将軍になるという形である。トクタミシュとティムールの戦いが続いていたため、これを成しとげることができた。ハンとして擁立された時期は、はっきりしないが、早ければ1391年ごろともされる。2人は、ときには軍を分けて別の目標を追ったため、テムル・クトルクは単なる操り人形ではなかったとされるが、実権はエディゲにあり、名目上の君主にすぎなかったともいわれる。1396年には、再びティムールがジョチ・ウルスに侵攻し、トクタミシュはリトアニアへ逃れた。テムル・クトルクは東で旧アストラハンなどを治め、伝統的な都サライはティムールの庇護を受けるクユルチュクが治めていたが、2人は1396年か1397年に彼を追い出して、サライを奪った。
しかしトクタミシュは態勢を立て直し、リトアニアから攻め込んだ。1397年にクリミアのカッファを包囲し、1398年にはエディゲの留守中にサライを取り戻した。だが、まもなくテムル・クトルクとエディゲに敗れて、再びリトアニアへ逃げた。テムル・クトルクがリトアニア大公ヴィータウタスにトクタミシュの引き渡しを求めると、大公は、トクタミシュは引き渡さないが、テムル・クトルクには直接会いたい、と答えた。1399年夏、ヴィータウタスとトクタミシュは大軍でジョチ・ウルスに侵攻し、ヴォルスクラ川でテムル・クトルクの軍と向かい合った。テムル・クトルクは、エディゲの援軍が着くまで戦いを引き延ばそうと、臣従して貢物を納めるふりをして、3日の猶予を求めた。そのあいだにエディゲが援軍とともに到着した。1399年8月12日にヴォルスクラ川の戦いが起き、テムル・クトルクとエディゲは、偽りの退却で敵軍を包囲して大勝した。トクタミシュは東のシビルへ逃れた。テムル・クトルクとエディゲは、ルーツクまで荒らし回り、キエフなどから身代金を得た。この勝利の直後に、テムル・クトルクは亡くなった。トクタミシュの遺児との戦いのなかで亡くなったともいわれる。テムル・クトルクの孫はクチュク・ムハンマド、その孫のカースィム・ハンが、一般にアストラハン・ハン国の初代君主とされるが、系譜史料では、テムル・クトルクがアストラハンの初代君主とされている。
同じ年に亡くなった人物
- トマス・モウブレー (初代ノーフォーク公) (1399年没)
- ギン・ブア・スパタ (1399年)
- ペトル・パルレーシュ (1399年没)
- ドミトリユス・アルギルダイティス (1399年没)
- ジョン・オブ・ゴーント (1399年没)
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