伝記
トマス・モウブレーは、14世紀イングランドの貴族で、初代ノーフォーク公である。1366年に生まれた(3月22日とする説がある)。第4代モウブレー男爵ジョン・モウブレーと、エリザベス・セグレイヴの次男で、母方の祖母はノーフォーク女公マーガレットである。マーガレットは、エドワード1世の五男であるノーフォーク伯トマス・オブ・ブラザートンの娘だった。
父は1368年に亡くなり、4年後、トマスと兄ジョンは、大叔母のブランチ・オブ・ランカスターの被後見人となった。兄ジョンは、1377年にリチャード2世の戴冠でノッティンガム伯に叙された。次男であったために若いころの記録は少ないが、幼いころからの友だったと思われる国王リチャード2世の寵臣となったのは1382年ごろからで、その年に王室の森での狩猟権を与えられ、騎士に叙された。1383年の初めに兄が亡くなると、伯位は数日のうちにトマスに与えられ、トマスはまだ法的には未成年だったが、父祖の領地の占有を許された。1383年にはガーター勲章を受け、軍務伯にも任じられた。同じ年に、10歳のエリザベス・ル・ストレンジと結婚したが、まもなく死別し、子はなかった。1384年には、アランデル伯リチャード・フィッツアランの娘エリザベスと再婚し、2男3女をもうけた。
1385年には国王のスコットランド遠征に同行した。このころ、国王には新しい寵臣ロバート・ド・ヴィアが現れ、モウブレーは、舅となったアランデル伯と親しくなった。1387年、国王の叔父グロスター公トマス・オブ・ウッドストックや、ウォリック伯、国王の従弟ヘンリー・ボリングブルックと組んで、訴追派貴族に加わり、国王の寵臣を弾劾した。1388年の「無慈悲議会」で寵臣たちは追放された。しかしモウブレーは、仲間たちの苛酷な報復に幻滅したのか、1389年までには国王の寵愛を取り戻した。その後は、馬上槍試合に出たり、使節を率いたりし、1391年にはカレー総督に任じられ、1395年の国王のアイルランド遠征にも加わった。
1397年、国王の反撃でグロスター公らが反逆罪で逮捕され、舅のアランデル伯は処刑され、ウォリック伯は終身刑となったが、モウブレーは処罰を免れ、この年にノーフォーク公に叙された。ボリングブルックとともに国王側へ移ったのである。カレーに拘留されたグロスター公は、モウブレーの監視のもとで亡くなり、国王の命でモウブレーが殺したとされる。ところが、1398年にボリングブルックから反逆罪で訴えられ、決闘に至ろうとしたところに国王が自ら介入し、モウブレーは終身、ボリングブルックは10年の国外追放となった。モウブレーはエルサレムへの巡礼を誓った。
1399年7月、ボリングブルックが挙兵してリチャード2世を廃位に追い込み、ヘンリー4世として即位した。トマスは同年9月22日、ヴェネツィアでペストにかかり、その地を出ることなく亡くなった。ノーフォーク公の位は消え、長男トマスが伯位と男爵位を継いだが、1405年に反乱を起こして処刑された。次男ジョンは1425年にノーフォーク公に叙された。
同じ年に亡くなった人物
- ニコラウス・エイメリクス (1399年)
- ペトル・パルレーシュ (1399年没)
- Raymond of Capua (1399年)
- ギン・ブア・スパタ (1399年)
- ヤドヴィガ (ポーランド女王) (1399年没)
同じ地域に関係する人物
- ルキウス・ウェルス (169年没)
- ピエトロ・フランチェスコ・カヴァッリ (1676年没)
- ドメニコ・フェッティ (1623年没)
- Mekhitar of Sebaste (1749年没)
- Renato Petronio (1976年没)