伝記
アル・ムスタクフィー1世(アブー・アッラビーア・スライマーン・アル・ムスタクフィー・ビッラー)は、1285年3月23日に生まれ、1340年2月に没したアッバース朝のカリフである。マムルーク朝のもとでカイロに置かれたカリフとしては3代目にあたり、1302年から1340年まで在位した。
1302年、父アル・ハーキム1世の跡を継いでカリフとなり、アル・ムスタクフィー・ビッラーを名のった。在位の全期間を通じ、マムルーク朝のスルタンであるナースィル・ムハンマドの後見のもとに置かれ、名目上の存在にとどまった。1303年、モンゴルのガザンがふたたびシリアへの侵攻を企てると、ナースィル・ムハンマドはカイロを出て、ムスタクフィーを伴って進んだ。ダマスカスの前に陣を張った軍はマルジュ・アッサッファルの戦いでモンゴル軍に勝ち、ムスタクフィーもその場に立ち会った。この勝利は、モンゴルがシリアへ侵入しようとした最後の試みとなった。
カリフの内政上の力は無いに等しかったが、外交では、権力の正統性を求めるイスラーム世界の君主たちに対し、なお一定の影響力を保っていた。1307年から1308年にかけて、ムスタクフィーはイエメンのラスール朝のアル・ムアイヤド・ダーウードに書簡を送り、とりわけメッカへの穀物の供給を怠ったことをとがめて、報復も辞さないと警告した。1309年には、バイバルス2世によってスルタンの座が一時奪われるごく短い中断があった。
1336年、ナースィル・ムハンマドはムスタクフィーを捕らえ、一族とともにカイロの城塞に閉じこめたうえ、上エジプトのクースへ追放した。ムスタクフィーは1339年か1340年に追放先で亡くなった。亡くなるにあたって、息子のアル・ハーキム2世を真の後継者に指名していたとされる。しかしスルタンはこの遺志を認めず、父アル・ハーキム1世の孫にあたるイブラーヒームを、アル・ワーシクとして一方的に後継のカリフに据えた。1302年には、スルタンがカリフに忠誠を誓ったのに対し、このときはカリフがスルタンに忠誠を誓った。のちにナースィル・ムハンマドは、臨終にあたってムスタクフィーの家系を退けたことを悔い、アル・ワーシクの廃位を命じて、称号をムスタクフィーの息子に戻した。
同じ年に亡くなった人物
- Simonida (1340年)
- ボレスワフ・ユーリー2世 (1340年没)
- ヨハン1世 (バイエルン公) (1340年没)
- ゲルハルト3世 (ホルシュタイン=レンズブルク伯) (1340年没)
- キョセ・ミハル (1340年(推定))
同じ地域に関係する人物
- マンスール・アブー=バクル (1341年没)
- Iaret (紀元前1450)
- ラムセス5世 (紀元前1153)
- アルシノエ1世 (紀元前240年代没)
- ツヤ (紀元前1257)