HISTORICAL PERSON · 紀元前1063没

ネジェメト

第20〜21王朝の貴族の女性で、大司祭ヘリホルの妻。先夫ピアンクがヌビアに出た際はテーベの管理を任され、ヘリホルの時代には名がカルトゥーシュに書かれて王妃同様に扱われた。ピネジェム1世の母とされる。

生涯
紀元前1063没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(ケナ県 / テーベ)
出生地
—
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(ケナ県)

伝記

ノジメトは、第20王朝末から第21王朝初めにかけての古代エジプトの貴婦人で、テーベのアメン大司祭ヘリホルの妻として主に知られる。名はネジメト、ノトミトとも綴られる。最後のラムセス朝のファラオ、ラムセス11世の娘だった可能性があり、ピアンクがヘリホルの前任者だったとするヤンゼン・ヴィンケルンの説に従えば、ピアンクの妻でもあったとされる。若いころには「家の女主人」「アメンのハーレムの長」といった称号を持っていた。

エジプト学者のドッドソンとヒルトンによれば、ノジメトは最初の夫ピアンクとの間に、ヘカネフェル、ヘカマアト、アンクエフェンムト、女性のファイエンムト、そして最も有名な未来のアメン大司祭でファラオのピネジェム1世をもうけた。ピアンクの最も信頼できる相談相手となり、夫がヌビアでの務めに出るたびに、テーベの管理は彼女に任された。紀元前1070年ごろにピアンクが死ぬと、後継者としてヘリホルが推されたが、ノジメトはこの男と結婚することで自らの立場を保った。のちにヘリホルが、カルナックのアメン神殿の境内に限られてはいたが「王権」を主張すると、ノジメトは事実上その「王妃」となった。名は王名環に記され、「二国の女主人」「王の母」といった称号も帯びた。ノジメトは二人目の夫よりも長生きし、ファラオ・スメンデスの治世の初めの数年、紀元前1064年ごろに死んだ。

ミイラはデイル・エル・バハリの隠し場所(TT320)で見つかった。遺体は老女のもので、義眼や四肢への詰め物を用いる新しい防腐処理を施され、心臓は体内に残っていた。ミイラとともに死者の書が二つ見つかっている。一つは大英博物館のパピルス10490で、「王の母ノジメト、王の母フレレの娘」のものである。ノジメトの名は王名環に書かれたが、フレレの名は書かれていない。このノジメトはおもにヘリホルの妻とみなされるため、フレレの肩書は「王の義母」と解されることが多いが、「強い雄牛を産んだ者」という称号からは、実際に王を産んだはずだとも考えられる。もう一つの死者の書(10541)は、古代エジプトのパピルスのなかでもとくに美しい挿絵をもつものの一つである。

近年、王妃ノジメトは一人だけだったという通説に異論が出ている。隠し場所で見つかったミイラの主はヘリホルの妻ではなく母だったとする古い見方が復活したのである。ヘリホルに王妃ノジメトがいたことは争いがなく、シャンポリオンもすでに認めていた。ところが1878年にナヴィーユは、パピルス10541を根拠に、ヘリホルにはノジメトという母がいたはずだと唱えていた。ティースが指摘するように、二つの死者の書のどこにもノジメトは「王の妻」とは呼ばれず、「王の母」としての地位が強調されている。この時期の支配者一族は同じ名の繰り返しで悪名高く、同名の妻と母がいても不思議ではない。隠し場所のノジメトがヘリホルの母なら、フレレは義母でなく祖母で、大司祭アメンヘテプの妻だった可能性もある。そこで隠し場所のノジメトを「ノジメトA」(ヘリホルの母)、ヘリホルの妻を「ノジメトB」と呼ぶことが提案されている。

ヘリホルの妻としてのノジメトは、コンス神殿に、ヘリホルの子どもたちの行列の先頭に立つ姿で描かれている。ライデンの石碑V65にも、王権を帯びない大司祭として示されたヘリホルとともに描かれ、この石碑はヘリホルの経歴のかなり早い時期のものと見られる。ミイラの主をめぐる議論が続いても、ヘリホルの妻にノジメトがいたことは確かである。

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