HISTORICAL PERSON · 1326年没

ケベク

チャガタイ・ハン国のハン。兄弟でナリクを殺害して王位争いに勝利した後、兄エセン・ブカを推戴して共同統治者となり領土支配を固めた。

生涯
1326年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ケベクは、チャガタイ家の当主で、チャガタイ・ハン国の第10代および第12代のハンとされる人物である。漢語の史料では怯別と記される。第12代君主ドゥアの子で、兄弟にゴンチェク、エセン・ブカ、イルジギデイ、ドレ・テムル、タルマシリンらがいる。父の時代にはインドへの侵攻に加わり、1305年にデリー・スルタン朝への懲罰遠征でパンジャブ地方、とくにムルターン周辺を荒らした。しかし帰途のインダス川のほとりで、デリーから送られた軍に襲われて多くの死者を出した。

1308年に兄のゴンチェクが死去し、傍流のナリクが即位した。当時のケベクは年少だったと思われるが、ドゥア一門に与する貴族の力を借り、イスラム暦708年(1308年から1309年)に弟のエブゲンとともにナリクを殺害した。この混乱に乗じて、カイドゥの子チャパルがオゴデイ家の一族を率いてチャガタイ家の領土に攻め込んだ。ケベクは自ら迎え撃ったが敗れた。それでも、ナリクの甥のアリーやシャイフ・ティムール、オゴデイ家のシャーらの助けを得て再び戦い、勝利を収め、チャパルを大元ウルスへ追い払った。1309年の夏にクリルタイを開き、アフガニスタンに駐屯していた兄エセン・ブカをハンに推した。ケベクはエセン・ブカからマー・ワラー・アンナフルとフェルガナの統治権を与えられ、ハン国の共同統治者となった。

1313年(1314年ともいう)、ケベクは他のチャガタイ家の王族を率いて、イルハン朝が領有するホラーサーン地方に攻め込んだ。遠征中に、同行した王族のヤサウルがイルハン朝に内通していることが発覚した。1317年にはヤサウルの討伐を命じられたが大敗し、領地を略奪され、配下にもヤサウル側につく者が現れた。その後もヤサウルを追ったが、オルジャイトゥ・ハンの援軍に攻撃され、ヤサウルの亡命を許すことになった。1320年にエセン・ブカが死去すると、ケベクが跡を継いだ。この年、ヤサウルの専横を疎んだオルジャイトゥとヘラートのクルト朝から共同出兵を持ちかけられ、ホラーサーンに兵を送ってヤサウルを討った。

ケベクは、即位前から本拠にしていたカシュカダリヤに宮殿を建てて定住生活を営み、その宮殿はウイグル語で宮殿を意味するカルシと呼ばれた。内政では徴税請負人の制度を廃して税制を改め、国内の行政区画を、1万人の兵を出せる単位であるトゥメンに分けた。イルハン朝のガザンにならい、歴代のハンで初めて自分の名を記した貨幣を鋳造した。この貨幣は「ケベキ」と呼ばれ、その呼び名はティムール帝国でも使われた。エセン・ブカの時代に敵対していた大元ウルスとイルハン朝の和解にも力を尽くした。大元の宮廷の二人の王女を妻に迎えたとされ、1323年からは毎年、大元の皇帝に貢物を送り、国境で小競り合いが起きたときも争いを避けた。

ケベクはイスラム教徒ではなかったが、国内の宗教と文化を公平に扱い、ティムール朝の歴史家に公正さをたたえられた。史料では「公正なるケベク」と呼ばれることも多い。のちにタルマシリン治下のチャガタイ・ハン国を訪れた旅行家イブン・バットゥータも、民衆に乱暴を働く貴族をケベクが罰した逸話を伝え、その公平な姿勢をほめている。その施策は定住民には歓迎されたが、遊牧を営む貴族のなかには否定的な者も少なくなかった。彼の治世から、都市生活とイスラムの習慣に慣れた西部の定住派と、遊牧を伝統とする東部の遊牧派が対立し始めた。ケベクは1326年ごろに亡くなり、弟のイルジギデイが跡を継いだ。死後、ハン国は東西に分裂していくことになる。

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