伝記
ステファン・ヴラディスラフ2世は、ネマニッチ家に属するセルビアの王族で、スレムの領主として知られる人物である。セルビア王位の請求者でもあった。一二七〇年ごろ、一説には一二七〇年から一二八〇年のあいだに、のちのセルビア王ステファン・ドラグティンと、その妃でハンガリー王家出身のカタリンの長男として生まれた。生まれる少し前に、父ドラグティンは王位の継承者であることを示す「若王」の称号を与えられていた。一二七六年にドラグティンがハンガリーの援助を受けて自分の父のウロシュ1世を王位から退けると、ヴラディスラフが新たな継承者となった。
ところが一二八二年の春、ドラグティンは落馬の事故で退位を余儀なくされ、弟のミルティンに王位を譲った。ただしセルビア北部は別の国として保つことができた。ビザンツの歴史家パキュメレスは、ドラグティンの二人の息子のうち、ヴラディスラフかウロシツァのどちらかの継承権も認められたと記している。母方の従兄にあたるカール・マルテルは、ハンガリー王位を主張していた人物で、ヴラディスラフにスラヴォニアを与えて公の称号を授けた。このことから、一二九〇年代の初めにヴラディスラフと父は、ハンガリー王アンドラーシュ3世に対抗してカール・マルテルを支持していたと考えられる。カール・マルテルの父であるナポリ王カルロ2世は、一二九二年八月十九日にこの授与を承認した。やがて二人はハンガリー王アンドラーシュ3世との和解を求めた。一二九三年、ヴラディスラフはアンドラーシュ3世の縁者にあたるコンスタンツァ・モロジーニと結婚し、カール・マルテルとの同盟はここで終わった。アンドラーシュ3世は一三〇一年に没し、カール・マルテルの子カーロイ・ロベルトが跡を継いだ。
一三〇六年ごろからミルティンは、長男のステファン・コンスタンティンを後継者とするための手を打ち始めた。教皇クレメンス5世に、セルビア正教会をローマ教会と合同させる提案までして、コンスタンティンの継承権の承認を求めている。
一三一六年にドラグティンが亡くなると、ヴラディスラフはスレムの支配者として跡を継いだ。だが叔父でセルビア王のミルティンに戦いで敗れ、捕らえられて牢に入れられた。一三二一年にミルティンが没して自由の身になると、ハンガリー、ブルガリア、ボスニアのバンとシュビッチ家の支援を得て、父の領地を治めることになった。法に従えば、王位はヴラディスラフに与えられるべきであった。ブルガリア皇帝ミハイル3世アセンは、ミルティンの後継者である従弟のステファン・デチャンスキと対立しており、ヴラディスラフをセルビア全土の正統な君主として支持したが、その支援は十分ではなかった。一三二三年にはデチャンスキが従兄に戦いを宣言し、一三二五年にデチャンスキが勝利した。デチャンスキの支持者にふたたび敗れたヴラディスラフは、ハンガリー王国へ逃れた。時期は一三二四年とも一三二五年ともいわれる。ボスニアにあった彼の領地のソリとウソラ、スレム下部の一帯は、甥のボスニア・バンのステファン2世が治めるようになった。ヴラディスラフの没年は分かっていない。
同じ年に亡くなった人物
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- Al-Hilli (1326年没)
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同じ地域に関係する人物
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