伝記
レオポルト1世は、ハプスブルク家のオーストリア公であり、シュタイアーマルク公でもあった人物である。「栄光公」とも、「ハプスブルク家の剣」とも呼ばれた。一二九〇年八月四日にウィーンで生まれ、ローマ王アルブレヒト1世と王妃エリーザベト・フォン・ケルンテンの三男にあたる。兄にボヘミア王ルドルフ1世(オーストリア公ルドルフ3世)と、のちにローマ王となる美王フリードリヒ3世がおり、弟にはアルブレヒト2世(賢公)とオットー(陽気公)がいる。祖父のルドルフは、一二七三年にローマ王に選ばれていた。
長兄のルドルフ3世は一三〇七年に世を去り、一三〇八年五月に父アルブレヒト1世が従兄弟のヨーハン・パリツィーダに暗殺された。その後、レオポルトは次兄のフリードリヒとともに家の所領を治めた。フリードリヒがオーストリアとシュタイアーマルクを治める一方、レオポルトはシュヴァーベンにあるハプスブルク家の旧領を管理し、上アルザスやスイスのドイツ語圏の所領に目を配った。父を殺した者たちへの報復にも乗り出したという。一三一一年には、ルクセンブルク家のハインリヒ7世のイタリア遠征に従い、ミラノで起きたグエルフ派の反乱の鎮圧を助け、ブレシアの包囲にも加わった。
ハインリヒ7世が亡くなると、レオポルトは一三一四年の選挙で兄フリードリヒを推した。買収を重ねても得られた選帝侯の票は四つにとどまり、五票を得たルートヴィヒ4世がローマ王に選ばれた。二人の争いは武力衝突に発展し、レオポルトの軍は兄の主張を支えた。しかし一三一五年十一月十五日、故郷のスイスでモルガルテンの戦いに臨み、スイスの農民兵に大敗した。同じ年、サヴォイア伯アメデーオ5世の娘カタリーナと結婚している。
一三二二年九月二十八日、ミュールドルフの戦いでフリードリヒが、弟のハインリヒとともに捕虜となった。レオポルトは二人を取り戻すために奔走し、ルートヴィヒ4世と交渉して、キーブルク城に保管していた帝国の宝器まで差し出そうとしたが、交渉は実らなかった。彼はなおも戦い続け、ルートヴィヒのバイエルン軍は一三二四年にシュヴァーベンの都市ブルガウを包囲したが、攻め落とせなかった。教皇ヨハネス22世がルートヴィヒの選出を承認せず、禁令を出すと、ルートヴィヒは一三二五年にフリードリヒを釈放した。ただしフリードリヒは、ルートヴィヒを君主と認めるよう弟を説得すると約束させられていた。
レオポルトはこの約束を拒んだ。説得に失敗したフリードリヒは、騎士としての誠実さから、自らバイエルンの宮廷に戻って囚われの身となった。ルートヴィヒは育ちをともにした従兄弟のその忠義に感銘を受けて友情を取り戻し、二人は帝国を共同で治めることで合意した。まもなくレオポルトは三十五歳でシュトラスブルクで亡くなり、遺体はスイスのヴィンディッシュにあるケーニヒスフェルデン修道院に葬られた。妻カタリーナとのあいだには二人の娘が生まれた。カタリーナは一三二〇年生まれでクシー領主アンゲラン6世と、アグネスは一三二二年生まれでシフィドニツァ公ボルコ2世と結婚した。レオポルトの死を受けて、フリードリヒは、ルートヴィヒとの共同統治の取り決めを手放し、ハプスブルク家の領地だけを治めることになった。
同じ年に亡くなった人物
- Sheikh Edebali (1326年)
- ステファン・ヴラディスラフ2世 (1326年没)
- ブランシュ・ド・ブルゴーニュ (1326年没)
- Al-Hilli (1326年没)
- 惟康親王 (1326年没)
同じ地域に関係する人物
- アントン・グラッセル (1976年没)
- ブラゴイェ・ヴィディニッチ (2006年没)
- アレクサンドル・ヴァレフスキ (1868年没)
- ジャン・エルマン (博物学者) (1800年没)
- ユリウス・フリードリヒ (ヴュルテンベルク=ヴァイルティンゲン公) (1635年没)