HISTORICAL PERSON · 1326年没

オスマン1世

オスマン帝国の初代皇帝で、エルトゥールルの長男。1299年にイェニシェヒルを占領してルーム・セルジューク朝から独立を宣言し、1302年のバフェウスの戦いで東ローマ帝国軍を破って勢力を広げた。

生涯
1326年没
死亡地
トルコ共和国(ビレジク県 / ソユット)
出生地
トルコ共和国(ソユット)
出典
世界地図
トルコ共和国(ビレジク県)

伝記

オスマン1世は、のちにオスマン帝国と呼ばれる国の基礎を築いた初代の君主とされる人物である。父はエルトゥールルで、初めの名はオスマン・ベイという。前半生についての同時代の資料はほとんどなく、初期の人生や出自は謎に包まれている。生年も確定せず、十六世紀の史家ケマルパシャザーデは一二五四年か一二五五年ごろとし、モンゴル軍がバグダードを攻めた日に生まれたという記述から一二五八年二月十三日とする意見もある。没年も一三二三年または一三二四年とする説のほか、スペイン語版の記事は一三二六年としている。日本語版の記事はエルトゥールルの長男とするが、スペイン語版の記事は、ケマルパシャザーデを引いて末の子としており、ここでも資料は一致しない。

名前の由来については、東ローマ側の記録にアトウマンなどとあり、のちにアラビア語のウスマーンをトルコ語風に変えたオスマンに改めたと伝えられる。のちに息子オルハンの治世にアナトリアを旅したイブン・バットゥータは、この国をオスマンジュクと呼んでいる。オスマン家の歴史は彼の死後百年以上たってから記されたため、史実と伝説の区別が難しいとスペイン語版の記事は注意を促している。伝説によれば、若いころのオスマンは長老エデバリの娘マル・ハトゥンに恋をしたが、貧しい身では相手にされないと考え、手柄を立てようとキルメンジク城の城主でギリシア人のキョセ・ミハルを捕らえた。ところが二人は意気投合して友人になったという。またオスマンは、長老の胸から昇った月が自分の胸に沈み、そこから大きな樹木が生えて天を覆い、根がチグリス、ユーフラテス、ナイル、ドナウの川となり、剣の形をした葉がコンスタンティノープルを指す夢を見た。エデバリはこれを世界制覇の予言と解き、娘を妻に与えたと伝えられる。

父エルトゥールルは、モンゴルの侵攻を逃れてルーム・セルジューク朝に忠誠を誓い、東ローマ帝国との国境のソユットの支配を認められたとされる。ただしこれも建国から百年以上のちに語られ始めた話で、真相は分からない。一二八一年に父が没すると跡を継ぎ、トルクメン系の遊牧民やムスリムの農民からなるガーズィーを率いた。東ローマ帝国の手が届かない辺境を支配し、略奪の襲撃を行い、近隣の町のアヒー集団と手を結ぶこともあった。カラジャヒサル城を中心に勢力を築くと、モンゴルの攻撃を逃れたトルコ系の戦士や宗教指導者、東ローマ帝国の援助が途絶えたキリスト教系の戦士らが集まった。一二九〇年代には辺境の城八か所と、トルコ人の町エスクシェヒルを占領した。

一二九九年、カラ・スー川の谷を占領したのちイェニシェヒルを得て、首都にふさわしい町を手に入れると、ルーム・セルジューク朝からの独立を宣言したとされる。一三〇二年ごろ、サカリヤ川の氾濫で東ローマ側の防衛線が崩れると、バフェウスの戦いで東ローマ軍を破った。この戦いの場所は諸説ある。スペイン語版の記事は、これが年代の確かなオスマンの最初の出来事で、彼を暗殺するために派遣された部隊を破ったとしている。一三〇八年までにサカリヤ川からマルマラ海にかけての地域を平定し、同年、エーゲ海に近いエフェンスという町も攻略した。以後、東ローマ帝国は有効な手を打てず、小アジアの防衛を放棄した。得た土地には貴族から奪ったものだけでなく、売買や政略結婚で平和的に手に入れたものもあったという。武勇と決断力に富み、人望も厚かった名君として、高く評価されている。

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