伝記
ヴァルティスラフ4世は、1290年以前に生まれたポメラニア=ヴォルガスト公である。ポーランド語ではヴァルチスワフ4世と呼ばれる。父はポメラニア公ボギスラフ4世、母はリューゲン公ヴィスラフ2世の娘マルガレーテで、ユッタ、エリザベス、マルガレーテ、オイフェミアという4人の姉妹がいた。ただ一人の息子であったとされる。
1309年に父が亡くなり、ヴォルガスト公の座を継いだ。当時のポメラニア諸公は外交の方針がそれぞれ異なり、父は対ブランデンブルクのためポーランドと結んだが、叔父のオットー1世はブランデンブルクに忠実な家臣であり続けた。ヴァルティスラフは政権に就くと、ブランデンブルク辺境伯ヴァルデマールに接近し、シュトラールズントの併合を望むデンマーク王エーリク6世と、ヴァルデマールとともに戦った。叔父のオットー1世とは良好な関係を保ち、バルト海岸へ広がるデンマークの野心に備えた。1310年には新しい町ノヴィ・シュチェチン、現在のシュチェチネクを築いて城を建てた。ロストックの併合を望むエーリク6世に対しても、ヴァルデマール、オットーと同盟した。リューゲン公ヴィスラフ3世とシュトラールズントの対立をめぐる助力への礼として、ヴァルデマールは1316年に中部ポメラニアをヴァルティスラフに与えたとされる。1317年にスワブノ=シュトルプの領地を封土として得たともいわれ、領地はレバ川にまで及ぶようになった。
1319年にヴァルデマールが亡くなると、ヴァルティスラフは、年少の相続人ハインリヒ2世の後見人となり、1320年までブランデンブルクの統治を主導した。1320年にハインリヒ2世が亡くなると、辺境伯の座は空いた。1321年には母方の叔父にあたるリューゲン公ヴィスラフ3世と相続協定を結んだ。ヴァルティスラフとオットーはウッカーマルクの広い範囲の領有を主張し、デンマーク王クリストファ2世とカミエン・ポモルスキの司教の支持を得た。ところが1323年、国王ルートヴィヒ4世が辺境伯領を子のルートヴィヒ5世に与えたため、ヴァルティスラフのブランデンブルク支配の計画は打ち砕かれた。同じ年、ポメラニアは辺境伯領の大部分を併合し、失地の回復をめざすルートヴィヒ5世に対して、ポーランド王ヴワディスワフ1世とナクウォで同盟してノイマルクを分け合った。しかし翌年には、ルートヴィヒ5世と和解した。
1325年にヴィスラフ3世が没してリューゲン公家が絶えると、ヴァルティスラフはその公領を相続した。リューゲンでの権力掌握に反対はなかった。1326年8月1日、シュトラールズントで亡くなり、カミエン・ポモルスキの大聖堂に葬られた。妻はウルリヒ1世の娘エリーザベト・フォン・リンドー=ルッピンで、ボギスラフ5世、バルニム4世、ヴァルティスラフ5世の3子をもうけた。子らはまだ幼く、未亡人エリーザベトが摂政となり、オットー1世とその子バルニム3世が相続人たちを保護した。
ヴァルティスラフの死後、デンマーク王クリストファ2世がメクレンブルクとヴェルレの諸侯にリューゲンを封じたため、相続をめぐる争いが起こった。幼い息子たちは、ホルシュタインのゲーアハルト3世とポメラニア=シュテッティン公バルニム3世の支援を受けて遺産のために戦い、1328年にメクレンブルクがリューゲンの権利を放棄した。1900年3月22日には、ベルリンの勝利の並木道で、アウグスト・クラウスが設計した大理石の胸像が除幕された。
同じ年に亡くなった人物
- ベルナルト (シフィドニツァ公) (1326年没)
- ドミトリー・ミハイロヴィチ (1326年没)
- Al-Hilli (1326年没)
- オスマン1世 (1326年没)
- ケベク (1326年没)
同じ地域に関係する人物
- アドルフ・フリードリヒ6世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公) (1918年没)
- Daniel Sanders (1897年没)
- マグヌス2世 (メクレンブルク公) (1503年没)
- マルグレーテ・サンビリア (1282年没)
- エルンスト・ベルンハイム (1942年没)