伝記
ヨハネス4世ラスカリスは、ニカイア帝国の最後の皇帝で、1258年8月に即位し、1261年12月まで在位した。1250年12月25日に生まれ、1305年ごろに没した。父は第3代皇帝テオドロス2世、母はブルガリアのエレナで、母方の祖父はブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世、祖母はその二番目の妃アンナ・マリアである。父帝の唯一の男子であり、相続人であった。ラスカリス家は、ビザンツ帝国の再興に大きな役割を果たした王朝であり、ヨハネスはその最後の皇帝、またコンスタンティノポリス奪回の前にニカイアだけを治めた最後の皇帝となった。
1258年に父帝が崩御すると、ヨハネスはまだ7歳か8歳の幼さで帝位を継いだ。摂政となったのは、父帝の側近であった官僚ゲオルギオス・ムザロンである。だがムザロンは卑しい出自のために貴族から憎まれており、父帝の葬儀のさなかに、その兄弟とともに殺害された。宮廷での政変の末、摂政の座は、貴族の指導者で若い将軍のミカエル・パレオロゴスに移った。ミカエルは有能な将軍だったが、先帝から警戒されて、エペイロス遠征では不十分な兵力しか与えられず、失敗して投獄されていた。父帝の死のときは獄中にあったが、釈放されると、直ちに大ドゥクスに昇進し、聖職者の求めで専制公にもなった。
1258年のクリスマスごろ、ミカエルは共同皇帝としてニカイアで戴冠した。このときミカエル夫妻が帝冠を受けたのに対し、ヨハネスは真珠をあしらった帽子を二番目に授けられただけで、以後は権力から遠ざけられた。1259年1月1日にミカエルがミカエル8世として共同皇帝になったともいわれる。ミカエルは、ヨハネスにとって、共通の先祖エウフロシュネ・ドゥカイナ・カマテラを通じた、またいとこの子にあたる。
1261年7月25日、ミカエルはラテン帝国からコンスタンティノポリスを奪回し、ローマ皇帝を宣言し、のちにハギア・ソフィア大聖堂で戴冠した。ヨハネスはニカイアに残され、その後、11歳の誕生日にあたる1261年12月25日、ミカエルの命令で両眼をつぶされた。帝位の継承資格を失わせるための処置であり、ヨハネスは、マルマラ海南岸のビテュニアの要塞に幽閉された。この残酷な仕打ちはニカイアの人々に衝撃を与え、総主教アルセニオスはミカエルを破門した。ラスカリス家に心を寄せる人々は小アジアに多く、ヨハネスを名乗る偽者を担いだ反乱も起きたが、間もなく鎮圧された。
ヨハネスは残りの生涯を、要塞のある地で修道士として過ごしたとされる。1273年にはシチリア王カルロ1世が、脱出した彼を宮廷に迎える旨の文書を出したが、ただし史家ゲアナコプロスは、この文書を、ラスカリス家に心を寄せるギリシア人の支持を集めるための宣伝と結論づけている。1290年(1284年ともいわれる)には、ミカエルの子で後継者のアンドロニコス2世が訪れ、父の仕打ちへの許しを求めた。1305年ごろに没し、のちに聖人として、14世紀のコンスタンティノポリスで記憶され、崇敬された。遺体はコンスタンティノポリスの聖ディミトリオス修道院に葬られたとされ、姉妹のエウドキアは、ヴェンティミリア伯に嫁いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ヴァーツラフ2世 (ボヘミア王) (1305年没)
- ジャン2世 (ブルターニュ公) (1305年没)
- 亀山天皇 (1305年没)
- ギー (フランドル伯) (1305年没)
- ルジェ・ダ・フロー (1305年没)
同じ地域に関係する人物
- イヴァン・スラツィミル (1397年没)
- ディオン・クリュソストモス (115年没)
- テオドロス2世ラスカリス (1258年没)
- Tacunnisa Hatice Halime Sultan Hatun (1500年没)
- ウェトラニオ (356年没)