HISTORICAL PERSON · 1305年没

ルジェ・ダ・フロー

シチリア王国出身の傭兵隊長。テンプル騎士団でアッコン包囲戦を戦った後追放され、東ローマ帝国などで軍事活動を展開した。

生涯
1305年没
死亡地
トルコ共和国(エディルネ県 / エディルネ)
出生地
イタリア共和国(ブリンディジ)
出典
世界地図
トルコ共和国(エディルネ県)

伝記

ルジェ・ダ・フローは、1267年ごろに南イタリアのブリンディジで次男として生まれ、テンプル騎士団の船乗りから傭兵隊長になった人物である。父はシチリア王フェデリーコ2世に仕えたドイツ人の鷹匠で、母はブリンディジの中流の女性とも、土地の名家の女性ともいわれる。父はタリアコッツォの戦いでシャルル・ダンジューと戦って1268年に没したとされ、家の財産は母の持参金を除いて没収され、母は子を育てる資力を失った。8歳のとき、テンプル騎士団のマルセイユ出身の騎士ヴァサルがブリンディジに来て彼を保護し、教育を引き受けた。長く航海したのち彼は騎士団に入り、のちにガレー船の船長となった。

1291年、マムルーク朝のスルタンがアッコを包囲したとき、ルジェは防衛側にいて、裕福な生存者らを助け出した。だが陰謀や個人的な争いに巻き込まれ、教皇から盗賊で背教者だと告発された。騎士団の財宝の一部を横領したと疑われたともいわれる。ルジェは騎士団を追放されてジェノヴァへ逃れ、借金をして船を買い、海賊として活動を始めた。1299年ごろにシチリア王フェデリーコ2世に仕え、ナポリやプロヴァンスの船を襲った。1301年にはナポリ王国のプーリア地方を急襲し、ナポリ王ロベルトに対するメッシーナの防衛でも名を上げて、その年の末にシチリア艦隊の副提督となった。フェデリーコはさらに、カタルーニャ人とアラゴン人の傭兵アルモガバルスの隊長に彼を任じた。ルジェはこの軍団を、共通の法となる憲章、十二人の賢者による調停の会議、契約を公にする印章、戦利品と給与の分配の細則によってまとめ、カタルーニャ傭兵団とした。

1302年にカルタベッロッタの和約でシチリア晩祷戦争が終わると、傭兵たちは職を失い、フェデリーコも彼らへの給料を払えなくなった。ルジェは、オスマン軍などのトルコ人に脅かされる東ローマ帝国の皇帝アンドロニコス2世に傭兵軍を提供することにした。傭兵団は4,000人のアルモガバルスと船39隻で構成され、1302年9月にコンスタンティノープルへ着いた。ルジェは皇帝の姪マリア・アセニナと結婚し、軍と艦隊の最高司令官としての大公爵の位を与えられた。傭兵の数が予想より多く、帝国は財政面の困難を抱えた。1304年の初め、黒海の北から来たアラン人の騎兵団と傭兵団との戦いでアラン人の首長が戦死し、アラン人はルジェに復讐を誓った。傭兵団はこの年の春にかけてフィラデルフィアなどを奪ってトルコ人を押し返し、8月15日にはトロス山脈の麓でトルコ人と戦った。帰ると、マグネシアの帝国人統治者が駐屯地のカタルーニャ人を殺して財宝を奪っていた。ルジェはマグネシアを包囲したが撃退された。

その後、傭兵団はガリポリに陣を築き、ルジェは未払いの給料を皇帝に要求した。交渉の末、皇帝は彼にカエサルの称号と、主要都市を除くアナトリアの領地を与えたという。1305年、ルジェは皇帝の息子ミカエル9世に敬意を表すため、わずかな供を連れてアドリアノープルへ赴いた。4月30日、ミカエル9世に招かれた宴会で、首長の仇を討とうとするアラン人が宴会を襲い、ルジェと従者のほとんどを殺した。指揮官を失った傭兵団は復讐としてトラキアとマケドニアを荒らし、のちにアテネ公国を奪った。この年には息子ルジェロが生まれ、ラモン・ムンタネーの年代記によれば1325年まで生きた。ルジェの名は、傭兵団の一員でもあったムンタネーの年代記によって広く知られた。

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