HISTORICAL PERSON · 1305年没

ジャン2世 (ブルターニュ公)

ブルターニュ公。第8回十字軍に父と従軍し、後にアキテーヌ総司令官としてフランス軍からイングランド領を守ろうとしたが果たせなかった。

生涯
1305年没
死亡地
フランス共和国(ローヌ県 / リヨン)
出生地
—
出典
世界地図
フランス共和国(ローヌ県)

伝記

ジャン2世は、ブルターニュ公(在位1286年~1305年)である。1239年1月3日または4日に生まれた。父はブルターニュ公ジャン1世(赤毛公)、母はブランカ(ブランシュ・ド・ナヴァール)で、ブランカはシャンパーニュ伯でナバラ王のティボー1世の娘である。1268年からは、イングランドの貴族としてリッチモンド伯の称号をもっていた。

1260年、ジャン2世はイングランド王ヘンリー3世の王女ベアトリスと結婚した。リッチモンド伯位は、持参金としてもたらされたものである。夫妻は6人の子をもうけた。王女の兄にあたるエドワード王子(のちのエドワード1世)とは非常に親しかった。リッチモンド伯にすぎなかったジャンは、父ジャン1世やルイ9世とともに第8回十字軍に赴いたが、1271年、ルイ9世がチュニスで没して十字軍は終わった。父は公領へ戻ったものの、ジャンはパレスチナへ向かったエドワード王子について行った。1285年には、フランス王フィリップ3世に同道して、アラゴン王ペドロ3世と戦った。

公位を継いだジャンは、子供たちの何人かをイングランドの王のもとに残した。次男ジャンは、エドワード1世によってアキテーヌの総司令官に任じられ、1294年にフィリップ4世がアキテーヌの没収を宣言して送り込んだシャルル・ド・ヴァロワの軍に対し、その防衛にあたることになった。この戦いに備えて、ジャン2世は直属の家臣を召集し、その際に領内の封土と領主を記録した『軍役簿』が作られた。アキテーヌの戦いで、次男ジャンは挫折を重ねた。ブルターニュで食糧を補給しようとしたイングランド軍が、フィヌテールのサン・マチュー修道院を略奪する出来事もあった。1296年にはジャン2世はイングランドの側を離れ、そのためリッチモンド伯位を王に奪われた。フランスとの和平が結ばれると、孫息子ジャン(のちのジャン3世)をシャルル・ド・ヴァロワの娘イザベルと結婚させ、1297年にはフィリップ4世によってフランスの貴族に列せられた。

1297年から1304年まで、ジャン2世はフラマン人の反乱と戦うフランス王の軍旗のもとで戦った。1302年にフランス軍がクルトレーで敗れたときその場にいなかったが、1304年、王がその雪辱を果たしたモン=アン=ペヴェルの戦いでは、戦場にいた。イングランド王は、リッチモンド伯位を彼に返した。この伯位は、死後は次男のジャンに移った。

1305年、和平がなると、ジャン2世はブルターニュの司教たちとの争いを解消するため、教皇クレメンス5世の戴冠式に出席すべくリヨンへ向かった。サン=ジュスト教会からの帰り道、教皇の乗るラバの手綱を引いていたとき、見物の群衆が乗っていた壁が崩れ落ち、教皇はラバから落ち、ジャン2世は壁の下敷きになった。事故から4日後の11月16日に死去した。遺体は鉛の棺に納められ、彼が創設したカルメル会のプロエルメルの修道院に葬られるべく運ばれた。1821年に、棺はサンタルメル教会に移されている。

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