HISTORICAL PERSON · 115年没

ディオン・クリュソストモス

ローマ帝国期のギリシア語の弁論家・哲学者で、黄金の口の異名を持つ。ドミティアヌス帝の下で乞食のような身なりで放浪し、哲学に目覚めたという。『王政論』などを含む80篇の『弁論集』が伝わる。

生涯
115年没
死亡地
—
出生地
東ローマ帝国(ブルサ県 / Prusa)
出典
世界地図
東ローマ帝国(ブルサ県)

伝記

ディオン・クリュソストモスは、ローマ帝国期のギリシア語の著述家、哲学者、弁論家で、第二次ソフィスト運動に属する。45年ごろ、あるいは40年ごろに生まれ、115年ごろに没した。「クリュソストモス」は「黄金の口」、すなわち弁舌の巧みさを意味するあだ名である。プルサのディオン、ディオ・コッケイアヌスとも呼ばれる。

ビテュニア属州のプルサ(現在のトルコのブルサ)に、皇帝ともゆかりのある富豪の家に生まれた。父はパシクラテスといい、息子の教育に心を砕いたらしい。青年期には新ピタゴラス学派のテュアナのアポロニオスに師事したとピロストラトスは伝えるが、ディオンの作品にその影響は見られない。皇帝になる前のウェスパシアヌスがエジプトを訪れた際には、アポロニオスらとともに面会して助言したという。のちローマに遊学し、ストア派のムソニウスと知り合い、あるいは師事した。ディオンの作品にはムソニウスの影響が見られる。

81年にドミティアヌスが即位してまもなく、ディオンは暴政によって追放されたためか、自発的に雌伏したためか、乞食のような身なりで帝国各地を放浪した。82年にローマ、イタリア、ビテュニアから追放されたとする説明もあり、皇帝への陰謀をめぐる助言が理由だったとされる。その間、プルサの実家は荒廃し、ディオンは黒海北岸やダキアなど辺境まで旅した。放浪中はプラトンの『パイドン』とデモステネスの弁論を心の支えにした。本人の言では、デルポイの神託を受けて地の果てまで行くよう命じられ、行く先々で「哲学者」と呼ばれるうち、自分でも哲学に目覚めたのだという。当時の哲学者の典型は乞食のような身なりだった。

96年にドミティアヌスが没すると、放浪を終えてネルウァ、続いてトラヤヌスの寵愛を受けた。ネルウァのもとで追放が解かれたともされ、コッケイアヌスの名はネルウァの氏族名に由来するという。以後はプルサで政治に関与し、町でかなりの地位を占めた。110年ごろ、小プリニウスとトラヤヌスの往復書簡によれば、プルサの公共施設の建設工程をめぐって政敵に難癖をつけられ、訴訟された。これ以降の足跡は伝わっていない。同年輩のプルタルコスとは、著作目録にディオンとの論争を内容とする作品があることから、少なくとも知り合いだったと推測される。

現存する作品は80篇からなる『弁論集』で、ほかに『髪の讃美』の断片などがある。『ムソニウスへの反論』『ゲタイ族について』などは失われた。第1篇から第4篇の『王政論』は主にトラヤヌスに向けて書かれたと推測される君主鑑で、ユリアノスやテミスティオスにも影響を与えた。第11篇『トロイア陥落せず』は、ホメロスの嘘を暴いてトロイアの名誉を回復するという、古代に複数あったトロイア戦争異説の一つである。作品は由緒正しいアッティカ方言で書かれたこともあって、中世ビザンツ帝国まで盛んに読まれた。シュネシオスやフォティオスは彼の伝記を著し、ヨーロッパでは15世紀から『王政論』と『トロイア陥落せず』を中心に出版された。ディオンは哲学を扱ったが、明確に属する学派はなかった。ディオゲネスを作品の主役にしたが犬儒派を信奉したわけではなく、乞食のように放浪しても奇矯な行為まではしなかった。ストア派の要素もあるが属するほどではなく、プラトンの対話篇は愛読しても、その哲学に強く関心を抱いたわけではない。エピクロス派にだけは冷淡だった。ピロストラトスは彼を「ソフィストと称された哲学者」に分類しつつ、何と呼ぶべきか分からないと述べた。第22篇では、自分は弁論家ではなく哲学者だと、弁論家らしく演説している。

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