HISTORICAL PERSON · 1305年没

ヴァーツラフ2世 (ボヘミア王)

プシェミスル朝ボヘミア王、後にポーランド王も兼ねた。貨幣統一(プラハ・グロシュ)を進め、ボヘミア・ポーランド・ハンガリーの3王位を一時に手中にした。

生涯
1305年没
死亡地
チェコ共和国(プラハ / プラハの旧市街)
出生地
チェコ共和国(プラハ)
出典
世界地図
チェコ共和国(プラハ)

伝記

ヴァーツラフ2世は、プシェミスル朝のボヘミア王(在位1278年~1305年)で、1300年からはポーランド王も兼ねた人物である。1271年9月27日にプラハ城で生まれた。父はボヘミア王とオーストリア公を兼ねたオタカル2世、母は2番目の妃クンフタである。クンフタはスラヴォニア公ロスティスラフの娘で、ハンガリー王ベーラ4世の孫娘にあたる。

1278年、父が神聖ローマ皇帝の座をめぐるルドルフ1世との争いのすえ、マルヒフェルトの戦いで戦死した。ヴァーツラフは7歳にならないうちに王位を継いだが、所領の多くをルドルフ1世に奪われ、残ったのはボヘミア王国とモラヴィアだけだった。ブランデンブルク辺境伯オットーが摂政となってボヘミアを荒らし、翌年には母子ともにベズデス城に幽閉され、まもなく少年はブランデンブルクのシュパンダウの城へ移された。年代記は貧しい囚われの身だったと伝えるが、誤りと見られ、1283年に解放されたときには、ドイツ語とラテン語を流暢に使いこなす教養を身につけていた。12歳ほどでプラハに戻り、貴族たちの助けを得てボヘミアを治め始めた。母クンフタが、かつての父の敵サーヴィシュ・ズ・ファルクンシュテイナとともに戻り、サーヴィシュは母と結婚して影響力を強めた。1285年には、ルドルフ1世の娘ユッタとエーガーで結婚し、国王への忠誠を誓った。ユッタがプラハに着いたのは1287年である。

1290年から親政を始めたヴァーツラフは、父の時代の国力を取り戻そうとして、プラハ・グロシュと呼ばれる銀貨と銅貨で貨幣を統一した。まもなく後見役のサーヴィシュを捕らえて処刑し、のちに継父を殺した償いとしてズブラスラフにシトー会修道院を建てた。アルプス方面の父の領地の回復はあきらめ、北の地域に勢力を伸ばし、ビトム公カジミェシュが臣従して、シロンスクの諸公国に対するボヘミア王の支配が始まった。クラクフ公国の支配も手にした。1296年にポーランド王プシェミスウ2世が暗殺されると、クヤヴィ公ヴワディスワフ1世と後継を争った。クラクフ公領の有力貴族はヴァーツラフを支持し、ローマ教皇の特許も得て、1300年にポーランド王として即位した。

一方、1301年にハンガリー王家が断絶すると、母方の祖母アンナがベーラ4世の王女だった縁から、ハンガリー貴族に迎えられ、息子のヴァーツラフ3世をハンガリー王に即位させた。しかしポーランドでもハンガリーでも実権は貴族が握っていた。1303年にはプシェミスウ2世の一人娘リクサ・エルジュビェタと再婚した。先妃ユッタは1297年に没していた。ヴァーツラフは征服者だった父と異なり、外交の人であったといい、ダンテをはじめ同時代の多くの人には、物質的な富で成功をおさめた弱い君主に見えたともいう。

プシェミスル家の勢力拡大に危機感を抱いたドイツ王アルブレヒト1世は、婚姻外交で切り崩しを図った。もともと病弱だったヴァーツラフは、その対応に苦慮するなか、1305年6月21日に病で亡くなった。跡を継いだ息子ヴァーツラフ3世は翌1306年に暗殺され、プシェミスル朝は断絶した。ヴァーツラフ2世は最初の妃ユッタとの間に4男6女、再婚相手との間に一女をもうけた。

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