HISTORICAL PERSON · 紀元前35年没

ガイウス・サッルスティウス・クリスプス

共和政ローマの政務官。引退後は歴史叙述に専念した。カエサル派として内戦を戦い、アフリカ・ノウァ属州総督を務め、『カティリナ戦記』『ユグルタ戦記』が今日に伝わり、ラテン語散文の典型として読まれた。

生涯
紀元前35年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(アミテルヌム)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ガイウス・サッルスティウス・クリスプスは、紀元前86年にサビニ人の町アミテルヌム(現在のラクイラ近郊)で生まれたとされる、共和政ローマの政務官であり、のちに歴史家として名を残した人物である。その地方の有力者の家系であったと考えられている。生まれ故郷のアミテルヌムは同盟市戦争に加わり、ガイウス・マリウス派についたため、続くルキウス・コルネリウス・スッラの時代に処罰の対象となった可能性があり、幼少期に受けた戦乱の衝撃が後の著作にも強く影響したとみる見方がある。幼い頃から病弱で、家はまもなくローマへ移り、若い頃にはピタゴラス主義へ傾いたとされる。留学の経験はないものの、ギリシア文学にも博識で、かなり高度な教育を受けたと考えられる。

政界での歩みは、手段を選ばぬものだったとみられている。紀元前55年ごろに財務官となり、紀元前52年には護民官に就任した。この年、プブリウス・クロディウス・プルケルがミロの一派に殺害され、ローマはオプティマテスと民衆派の激しい対立に揺れた。彼はミロと、ミロを弁護したマルクス・トゥッリウス・キケロを攻撃した護民官の一人と考えられている。以前にミロの妻との不倫をささやかれ、鞭打たれて罰金を科されたという伝えもあり、対立には私怨も絡んでいたとされる。紀元前50年、ケンソルの譴責を受けて元老院を除名されたが、この処分は、ガイウス・ユリウス・カエサルに近かった彼に対するグナエウス・ポンペイウス派の報復人事であったとする説もある。

紀元前49年に内戦が始まると、カエサルを助けて戦った。いつ頃からカエサル派に立ったのかは、研究者の間でも意見が分かれている。指揮官としては今ひとつだったといわれるが、アフリカ戦役ではケルキナ島を占領し、島の食糧を軍に供給した。タプススの戦いも目撃している。その後、カエサルの後押しで財務官に再び選ばれて元老院に復帰し、法務官を経て新アフリカ属州の総督となった。ところが任期を終えると不法な蓄財を理由に告訴され、カエサルの力添えによってどうにか無罪となった。総督時代に蓄えた資金で、彼はティヴォリの土地を買い、ローマにも壮麗な邸宅を構えたとされる。

紀元前44年にカエサルが暗殺されると、政治から引退した。以後はピンキウス丘の私邸に引きこもって贅沢を楽しみつつ、歴史叙述に専念した。この庭園は後に皇帝たちの所有となり、現在も観光名所として知られる。キケロと離婚したテレンティアを妻に迎えたとも伝えられる。主著『歴史』は、スッラの死後から自らの時代までを描いた大著だが、大部分が失われた。『カティリナ戦記』と『ユグルタ戦記』はほぼ完全な形で今日に伝わる。事件ごとに取り上げる形式にはトゥキディデスの影響がうかがわれ、個々の事件から全体の流れが感じ取れる点に特色がある。四世紀のヒエロニムスは彼を「最も信頼できる書き手」と評し、二作は中世にも人気を保った。1470年にヴェネツィアで印刷され、十九世紀まで教育の場で盛んに読まれた。没年は紀元前35年とも紀元前34年ともされる。子はなく、同族から同名の養子を迎えた。この養子はアウグストゥスとティベリウスの私的な側近の地位を得たが、アグリッパ・ポストゥムスの殺害に関わったとされ、20年頃に亡くなった。その養子の系統からは、カリグラの寵愛を受けて執政官を2度務めた者も出た。

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