HISTORICAL PERSON · 紀元前40年没

ガイウス・クラウディウス・マルケッルス・ミノル

小オクタウィアの夫で、キケロの友人。紀元前50年に執政官としてカエサルのガリア統治権の短縮や罷免を試みたが失敗した。内戦では武装抵抗せず、その死後に妻はアントニウスと再婚し、子孫は皇族となった。

生涯
紀元前40年没
死亡地
—
出生地
イタリア共和国(ローマ県 / 古代ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ガイウス・クラウディウス・マルケッルス・ミノルは、共和政ローマの元老院議員で、紀元前40年に没した。生年は不明だが、紀元前88年とする説もある。クラウディウス氏族の出で、第二次ポエニ戦争で活躍したマルクス・クラウディウス・マルケッルスの直系の子孫にあたる。同名の従兄弟マルケッルス・マヨルと区別するため、語尾に「ミノル(小)」をつけて呼ばれる。マルクス・トゥッリウス・キケロの友人でもあった。

紀元前51年の執政官マルクスと紀元前49年の執政官ガイウスの兄弟は従兄弟にあたる。妻は、のちの初代ローマ皇帝アウグストゥスの姉で、ユリウス・カエサルの姪孫にあたる小オクタウィアだった。紀元前54年、カエサルの娘でポンペイウスの妻だったユリアが死ぬと、カエサルは新たな血縁関係を築こうとして、オクタウィアをマルケッルスと離縁させ、ポンペイウスに嫁がせようとした。しかしポンペイウスが申し出を断り、この話は失敗に終わった。

マルケッルスはカエサルと政治的に対立していた。紀元前51年にはポンペイウスの影響力と従兄の働きかけで、翌年の執政官に選ばれたとされる。紀元前50年に執政官となると、強大になりつつあったカエサルの脅威を取り除くため、当初10年とされていたカエサルのプロコンスルの権限を2年早めて召還しようとした。イタリアへの帰還の際は非武装が基本であったから、これでカエサルの力を削ぎ、共和政ローマを存続できるはずだったが、試みは失敗した。この提案には同僚執政官アエミリウス・パウルスと護民官クリオが拒否権を行使したとされ、カエサルは彼を買収しようとしたが退けられたともいわれる。次にガリア総督の罷免を呼びかけたがこれもうまくいかず、カエサルが出した二期目の執政官への不在立候補についても、立候補はローマ本人が行うべきだとして無効を唱えた。

ポンペイウスの病気で提案が遅れる一方、マルケッルスは元老院にカエサルの二個軍団の引き抜きを決議させた。パルティアとの戦争に必要だという理由であったが、軍団はカプアに駐屯したまま新たな命令を受けなかった。カエサルが四個軍団を率いて進軍しているとの知らせが届くと、ポンペイウスを直ちにイタリアの司令官とするよう元老院に提案したが、風聞は誤りで、元老院は退けた。そこで彼は自らの権限と次期執政官二人の権限でポンペイウスに指揮権を授けた。紀元前49年、カエサルは軍団を解散せずルビコン川を越えてイタリアに侵攻し、内戦が始まった。マルケッルスはこの内戦で、カエサルに武装して抵抗することはなかった。従兄弟たちが逃れたのと違い、キケロと同様にイタリアを逃れることに反対し、多くの元老院議員がポンペイウスに従ってエピロスへ渡るなかで自分は残った。この判断と、カエサルとの縁戚関係から赦された。紀元前47年にはカエサルと兄マルクス、大マルケッルスとの間を取りなして、国外へ退去した。その後も妻の縁により高い地位にあったとされる。

紀元前40年に死去し、妻オクタウィアはその数か月後にマルクス・アントニウスと再婚した。オクタウィアとの間には二人の女子と一人の男子がおり、女子は二人ともクラウディア・マルケッラ、男子はマルクス・クラウディウス・マルケッルスと名づけられ、子供たちは皇族として育てられた。独裁権力を目指すカエサルの政敵であったにもかかわらず、その子孫はユリウス=クラウディウス朝の皇族となった。

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