伝記
フルウィアは、紀元前83年ごろに生まれ、紀元前40年に没した共和政ローマ末期の貴族の女性である。クロディウス、クリオ、マルクス・アントニウスという、当時ローマの第一線にいた三人の政治家・軍人と順に結婚し、政界に影響力を持った。三人の夫はいずれもカエサルの支持者だった。多くの学者は、彼女が三人の夫それぞれに政治的な影響を与えていたと考えている。宗教的役職にない女性として初めてローマの硬貨に描かれた。
フルウィアはローマかトゥスクルムで生まれ育った。出身のフルウィウス氏族はトゥスクルムを起源とする豊かな平民の一族で、紀元前125年を最後に執政官は出ていなかった。父はマルクス・フルウィウス・バンバリオ(演説での優柔不断ぶりから「吃り」を意味するあだ名がついた)、母はセンプロニアで、フルウィアはその一人娘だった。紀元前62年ごろ、プブリウス・クロディウス・プルケルと最初の結婚をし、息子と娘クロディアが生まれた。紀元前52年1月18日、クロディウスはアッピア街道でミロとその手下に殺された。フルウィアは公の場で夫の遺体に覆いかぶさって嘆き、遺体を引いてローマの道を練り歩いた。人気のあったクロディウスの遺体を怒った群衆が取り上げ、元老院で火葬した。フルウィアは母とともにミロの裁判で原告側の最後の証言を行い、ミロは有罪となって追放された。クロディウスの手下たちはフルウィアに従うようになった。
服喪が明けて間もなく、紀元前52/1年にガイウス・スクリボニウス・クリオと再婚した。クリオは平民の間で人気があり、もとは閥族派だったが、結婚後は平民派に転じてクロディウスの政策の多くを引き継いだ。紀元前50年に護民官に選ばれたが、紀元前49年、カエサルの命でヌミディア王ユバ1世と戦い、バグラダス川の戦いで戦死した。内戦中、フルウィアはほぼローマとその近辺から離れず、クリオの死の時にはクロディウスとの子二人に加え、クリオの子を身ごもっていたか産んだばかりだった。紀元前47/6年、三度目にして最後の結婚をマルクス・アントニウスとした。キケロはアントニウスが金目当てで結婚したと述べて攻撃材料にした。二人は強力な政治勢力となり、二人の息子をもうけた。プルタルコスは、クロディウスの政策が彼女を通してアントニウスに継承されたと考えている。
カエサルの暗殺後、アントニウスがローマで最も力ある人物となると、フルウィアは彼の政治活動に大きな影響を与えた。紀元前44年12月と紀元前43年の二度、キケロがアントニウスを国家の敵と宣言させようとした際には、支持の基盤を固めて阻止したという。紀元前43年に第二次三頭政治が成立すると、同盟を固めるため娘クロディアを若いオクタウィアヌスに嫁がせた。キケロが殺されたとき、フルウィアは復讐の成就を喜んだと多くの古代文献が記し、金のヘアピンでその舌を切り刻んだともされる。
紀元前42年、アントニウスとオクタウィアヌスが共和派を追って出征するとフルウィアはローマに残り、最も影響力のある女性となった。紀元前41年にローマへ戻ったオクタウィアヌスはクロディアと離婚し、フルウィアが最高権力を狙っていると弾劾した。フルウィアは古参兵のもとを巡って、アントニウスへの恩を思い起こさせ、義弟ルキウス・アントニウスと協力して反オクタウィアヌス運動を進めた。やがて対立は戦争となり、フルウィアはルキウスとともに8個軍団を召集したが、ペルシア(現ペルージャ)でルキウスは包囲され、アントニウスの援軍は来なかった。紀元前41年に決起して敗れた彼女は追放され、紀元前40年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- クィントゥス・フフィウス・カレヌス (紀元前40年没)
- ルキウス・ユリウス・カエサル (紀元前64年の執政官) (紀元前40年没)
- ルキウス・マルキウス・ピリップス (紀元前56年の執政官) (紀元前 40年(推定))
- アウルス・ガビニウス (紀元前40年代没)
- ブレビスタ (紀元前40年代没)
同じ地域に関係する人物
- ディオゲネス (犬儒学派) (紀元前323年没)
- ペリアンドロス (紀元前584)
- Pausias (紀元前400)
- エウダミダス3世 (紀元前228年没)
- マカニダス (紀元前207年没)