HISTORICAL PERSON · 1830年没

ピウス8世 (ローマ教皇)

在位1829年から1830年のローマ教皇。司教時代にナポレオン時代の政治抗争でフランスへ連行された。教皇として秘密結社とプロテスタントを糾弾し、ナポレオン後の新体制への教会の順応を模索し続けた。

生涯
1830年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(チンゴリ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ピウス8世は、ローマ教皇で、1829年3月31日から1830年11月30日の死まで在位した。本名はフランチェスコ・サヴェリオ・カスティリオーニといい、1761年11月20日に教皇領のチンゴリで貴族の家に生まれた。ナポレオン後のヨーロッパの新体制に、カトリック教会がどう順応していくかを模索し続けた。在位は2年に満たず、19世紀の教皇のなかで最も短い。

八人きょうだいの三番目で、父はオッターヴィオ伯爵カスティリオーニ、母はサンツィア・テレサ・ギスリエーリである。祖先に教皇ケレスティヌス4世がいる。イエズス会が運営するコレッジョ・カンパーナで学び、その後ボローニャ大学に進んで、1785年に教会法と市民法の博士の学位を得た。同年12月17日にローマで司祭に叙階された。1788年からアナーニ、ファーノ、アスコリ・ピチェーノの司教総代理を歴任した。

1800年8月11日にモンタルトの司教に任命され、17日にローマで司教に叙階された。ナポレオンやその傀儡のイタリア王国への忠誠の宣誓を拒んだため、1808年7月29日に逮捕されてミラノに連行された。その後、パヴィア、マントヴァ、トリノへと移され、1813年11月10日にトリノに着き、18日にミラノへ戻された。ナポレオンが倒れた後の1814年6月16日に、ようやく自分の司教区に戻った。前半生のヨーロッパは、まさにナポレオン時代であり、政治抗争に巻き込まれる形でフランスへ連行されたとする資料もある。ピウス7世に称えられ、1816年に枢機卿に任命され、ウィーン体制の下で教皇庁と教皇領が復興したのち、教皇レオ12世の側近となった。使徒座の内赦院長官などの要職を歴任し、まもなくフラスカーティの司教枢機卿にもなった。

1823年のコンクラーヴェでは有力候補とされた。ピウス7世に近く、しばしば「ピウス8世」と呼ばれていたが、必要な票が得られなかった。国務長官コンサルヴィとの同盟をめぐる議論が一因とされる。代わりにレオ12世が選ばれ、レオ12世は、いつかカスティリオーニが「ピウス8世」と呼ばれるだろうと述べた。1829年にレオ12世が没すると、虚弱な体と高齢が疑問視されながらも、再び有力な候補となった。アルバーニ枢機卿が、病身で任期は短いはずだとして彼を推し、自らが国務長官となることを条件に合意書を取り交わした。フランス国王シャルル10世も好意的な見方をしていた。1829年のコンクラーヴェで選ばれ、前任の二人の教皇が呼んでいた名のとおり、ピウス8世を名乗った。4月5日に戴冠した。アルバーニは望んでいた国務長官に任命された。

在位の時代のヨーロッパは、ナポレオン後の不安定な時期にあった。ピウス8世はこの不安定の原因を、秘密結社とプロテスタントの策動にあると考えていたらしく、両者を厳しく糾弾した。1829年にはイギリスでカトリック教徒解放令が出され、教皇はこれを歓迎した。フランスでは七月革命でルイ・フィリップが即位し、教皇は消極的ながらこれを受け入れ、国王として承認した。フランスの教会を再びフランス政府の手から取り戻したいと考えていた。異宗婚についての1830年の文書で、結婚は子をカトリックの信仰で育てる備えがなければ、正しく祝福できないと述べた。1830年に急な病を得てそのまま亡くなり、選出から2年に満たないことから、暗殺の憶測もあった。後をグレゴリウス16世が継いだ。

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