伝記
ガイウス・アウレリウス・コッタは、紀元前1世紀初頭の共和政ローマの政治家・軍人で、紀元前75年に執政官を務めた。生年は紀元前124年とも120年ともされ、没年は紀元前74年または73年とされる。平民のアウレリウス氏族の出で、氏族はこのころ、セルウィリウス氏族やカエキリウス・メテッルス家と並ぶ有力な平民の家となっていた。母は紀元前105年の執政官プブリウス・ルティリウス・ルフスの妹である。兄弟のマルクスは紀元前74年に、ルキウスは紀元前65年に執政官を務めた。ガイウス・ユリウス・カエサルの母アウレリアが彼の姉妹だとする説もあるが、確かではない。
コッタは紀元前90年代に法廷弁論家として歩み出し、大きな成功を収めた。キケロは彼を、その頃の十年間における有能な六人の弁論家の一人に数えている。紀元前92年には、無実でありながら訴追された叔父のルティリウス・ルフスのために、まだ若いコッタが短い弁論を行った。当時の政治闘争が絡んだ裁判で、中傷にすぎないことが明らかだったにもかかわらず、ルフスは追放と財産没収を宣告された。
コッタは護民官マルクス・リウィウス・ドルススと非常に親しく、紀元前91年にドルススが打ち出した改革の支持者の一人だった。改革は、元老院の拡大、審判人を元老院に戻す法案、国有地の分配、イタリア同盟都市への市民権付与を含んでいた。翌年にはコッタが護民官となって改革を継ぐはずだったが、案は社会の相当な部分から激しい反対を受けた。コッタは護民官選挙で落選し、リウィウス法は全て廃案となり、ドルスス自身も殺害され、イタリア同盟都市の反乱である同盟市戦争が起こった。紀元前90年にはウァリウス法が制定され、同盟都市に反乱を促した者は反逆罪とされた。この法でドルススの支持者への迫害が始まり、コッタも裁判にかけられた。アッピアノスによれば、コッタは法廷で印象的な演説をして公然と騎士階級に反論したが、判決の投票の前にローマから亡命した。
コッタがローマに戻れたのは、スッラがマリウス派との内戦に勝った紀元前82年のことで、スッラに感謝してその支持者となった。スエトニウスによれば、スッラが若いカエサルの殺害を命じたとき、カエサルの親戚であったコッタ家の誰かが助命を懇願した。この人物はガイウスか、弟のルキウスであろうという。やがて、遅くとも紀元前78年には法務官となった。ヒスパニアのセルトリウスにメッラリア海戦で敗れたコッタがガイウスだとする説もある。紀元前77年には、権力乱用罪でカエサルに訴追されたドラベッラを、ホルタルスとともに弁護し、ドラベッラは無罪となった。
紀元前75年、コッタはルキウス・オクタウィウスとともに執政官となった。穀物の輸入が不足して暴動が起きると、庶民を鎮めるために演説をした。また、スッラ派と決別し、スッラが定めた、護民官は高位官職の選挙に立候補できないとする規定を廃止する法案を提出した。この法案は通り、護民官は重要な位置を取り戻した。任期後は前執政官としてガリア・キサルピナ総督を務めた。大きな戦争はなかったが、凱旋式を熱望し、元老院はこれを認めた。しかし紀元前74年末か73年初頭、式のための帰国の途中で古傷が悪化し、世を去った。キケロは彼を最も有能な弁論家の一人とし、肺が弱かったため激しい弁論は諦め、誠実で簡素な語り口を身につけたと伝える。
同じ年に亡くなった人物
- Ganicus (紀元前70)
- マルクス・アントニウス・クレティクス (紀元前70年代没)
- ミトリダテス1世 (コンマゲネ王) (紀元前70年没)
- シナトルケス (紀元前70年没)
- オエノマウス (紀元前70)
同じ地域に関係する人物
- クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス (紀元前87年没)
- マッシモ・ボンテンペッリ (1960年没)
- アントニオ・セーニ (1972年没)
- グレゴリウス11世 (ローマ教皇) (1378年没)
- Titus Quinctius Atta (紀元前76)