伝記
クィントゥス・フフィウス・カレヌスは、共和政ローマ末期の政務官で、紀元前47年に執政官を務め、紀元前40年に没した。無名の平民であるフフィウス氏族の出身で、父はクィントゥス、祖父はガイウスである。弟は、紀元前70年のウェッレスの裁判に証人として出廷し、紀元前64年には検事を務めたルキウス・フフィウス・カレヌスと思われる。カレヌスという家族名はカンパニアの都市カラと関係している可能性があり、その場合、父はカンパニアの地主で、グラックスの農地法で経済的打撃を受けたのかもしれないという。
若いころには造幣官を務めたと推定される。史料に名が現れるのは紀元前60年代からだが、政治活動の開始はキンナの時代(紀元前87年から84年)とみられ、執政官就任時にはかなりの高齢だったと考えられている。紀元前47年に成人した息子がいたことなどがその根拠である。キンナの支持者であれば、スッラの独裁下とその後数年は沈黙を強いられたはずで、紀元前61年に護民官となって経歴を再開した。この年の話題は、クロディウスが女装してカエサルの家に侵入したとされる事件の裁判であった。カレヌスはクロディウスの弁護に立ち、法務官が陪審団を結成する法律の採択を阻止しようとしたが、法は成立した。そこで彼は法の修正に成功し、陪審員を元老院議員、騎士、トリブニ・アエラリイの三階級から同数選ぶこととした。その結果クロディウスは無罪となった。キケロはこの件に関連して、カレヌスを「非常に軽薄な人物」と評している。
紀元前59年に法務官となり、この年の執政官カエサルとビブルスの対立では、ポンペイウスやクラッススを後ろ盾とするカエサルを支持した。しかし三頭政治の人気は著しく落ち、カレヌスも打撃を受けた。最短期間である法務官から3年後に執政官になれず、しばらく表舞台から去った。紀元前52年にはクロディウス殺害に関する元老院の議論でミロを支持した。
紀元前51年、ガリアを征服中のカエサルの下で副司令官となり、ウクセロドゥヌムの包囲戦に参加した。紀元前49年に内戦が始まるとカエサル側につき、3月10日にはキケロの別荘を訪ねて元老院の「浅慮と愚かさ」を非難した。その後はマッシリア包囲戦とヒスパニア遠征にも加わった。同年末にはカエサルと共にブルンディシウムからイピロスに渡り、残りの兵を運ぶためイタリアへ戻ったが、ビブルス率いるポンペイウス派の艦隊に襲われ、30隻が拿捕されて乗員もろとも焼かれた。翌年1月にアントニウスと合流して兵を渡海させた。のちカエサルに南部ギリシアへ派遣され、デルポイ、テーバイ、オルコメノスは無抵抗で降伏し、アテナイとメガラも長く抵抗したが降伏した。ファルサルスの戦いの後はポンペイウス側のペロポネソス進出を阻み、パトラスを占領してギリシア征服を終えた。ギリシア人はオリンピアとオロポスの聖域にカレヌスの彫像を建てた。ローマに戻ると、紀元前47年の残りの期間の執政官に任命された。
カエサルの死後もローマで元老院議員として活動し、紀元前43年1月1日には、娘婿パンサが執政官であったこともあり最初に発言し、アントニウスとの交渉を提案した。軍事決着を望むキケロはこれに反対したが、特使の派遣が決まった。同年末にプロスクリプティオが始まると、リストにあったウァロを別荘に匿って救った。紀元前41年にガリア・ナルボネンシスの総督となり、のちガリア全土の支配権を得て11個軍団を有したが、アントニウスと合流しようとした紀元前40年中ごろ、病気で急死した。同名の息子と娘が一人おり、娘はパンサと結婚していた。
同じ年に亡くなった人物
- ガイウス・クラウディウス・マルケッルス・ミノル (紀元前40年没)
- ルキウス・マルキウス・ピリップス (紀元前56年の執政官) (紀元前 40年(推定))
- フルウィア (マルクス・アントニウスの妻) (紀元前40年没)
- アウルス・ガビニウス (紀元前40年代没)
- ルキウス・ユリウス・カエサル (紀元前64年の執政官) (紀元前40年没)
同じ地域に関係する人物
- グナエウス・ポンペイウス・ストラボ (紀元前87年没)
- ルイジ・マーニ (2013年没)
- トニーノ・デリ・コリ (2005年没)
- ダニエル・ボベット (1992年没)
- リベリウス (ローマ教皇) (366年没)