伝記
ヤフヤー・ブン・シャラフ・ナワウィーは、13世紀のシリアで活躍したイスラーム法学者・ハディース学者である。ナワウィーという呼び名は出身地の村の名に由来する。ヒジュラ暦631年ムハッラム月(西暦1233年10月)に、ダマスクスの南にあるナワー村で生まれた。父は商店を営んでいた。幼いころからクルアーンを読むことを好み、7歳のころの断食月の27日の夜、目を覚ました少年が、家いっぱいに広がる光は何かと父に尋ねたという。家族には何も見えなかったが、父はその夜が息子の運命の夜だったと悟った。10歳のとき、父は彼を店で働かせながら、クルアーンの学びも続けさせた。ヒジュラ暦7世紀の40年代、シャイフのヤースィーン・アル=マラーケシーがナワー村に立ち寄り、遊びを強いる子どもたちから逃れてクルアーンを唱える少年に目をとめた。シャイフは、この子は時代でもっとも学識があり禁欲的な人になるだろうと語った。これを聞いた父は息子への心配りを深め、少年は思春期のころまでにクルアーンを暗記し、村の学者から法学も学んだ。
ヒジュラ暦649年、18歳のナワウィーは、父に連れられてダマスクスに出た。ウマイヤ・モスクの導師ジャマール・アブドゥルカーフィーに学び、ムフティーのタージュッディーン・アル=ファザーリーを最初の師とした。この師の推薦で、ラワーヒーヤ学院の院長に迎えられ、学院に付属する一室を与えられた。ナワウィーは亡くなるまでこの部屋で暮らした。学院では、『タンビーフ』を4か月半で暗記し、同じ年の残りの期間にシャーフィイー派の法学書『ムハッザブ』の4分の1を暗記した。1日に12の講義を受け、道を歩く間も復習を欠かさなかった。この暮らしを6年ほど続けた。1253年には父とともにメッカ巡礼を果たした。帰ってからは、ムフティーやカーディーなどの公職に就かず、15年ほどのあいだ市井のウラマーとして過ごした。
1267年ごろ、ナワウィーはアブー・シャーマの跡を継いで、ダマスクスのアシュラフィーヤ・ハディース学院の長になった。自分から望んだわけではなく、引き受けるよう求められたという。旱魃の続いたある年、街の代表としてマムルーク朝のスルターン、バイバルスに税負担の軽減を求めた。バイバルスは怒り、ナワウィーをダマスクスから追放させたが、まもなく毒殺され、ナワウィーは街に戻った。ナワウィーは、ヒジュラ暦676年ラジャブ月24日の水曜日に、故郷のナワー村の実家で亡くなった。西暦では1277年にあたる。訃報は翌日の木曜日にダマスクスに届き、金曜日のウマイヤ・モスクの礼拝では、深い悲しみのなか、彼のために祈りが捧げられた。
著作は少なくとも50点以上ある。『ミンハージュル・ターリビーン』は、シャーフィイー派の法学入門書の古典とされる。『マジュムー・シャルフル・ムハッザブ』は同派の見解に基づく法的判断の手引書で、『リヤード・サーリヒーン』は、主題ごとにクルアーンの章句とハディースを示して注釈を加えた実用的な宗教書である。40あまりの伝承を集めた『アルバイーン・ナワウィーヤ』は、法学派の違いを超えて広く受け入れられている。ナワウィーはアシュアリー派の神学を信奉し、ときの為政者に妥協せず、慣行(スンナ)を重んじる聖戦(ジハード)を唱えた。その政治思想は、のちのイブン・タイミーヤら、スンナ派の「活動家的イマーム」に受け継がれていく。
同じ年に亡くなった人物
- コンスタンティン・ティフ (1277年没)
- 陳太宗 (1277年没)
- ステファン・ウロシュ1世 (セルビア王) (1277年没)
- バイバルス (1277年没)
- アブー=アブドゥッラー・ムハンマド・アル=ムスタンスィル (1277年没)
同じ地域に関係する人物
- Hamza Ali Al-Khateeb (2011年没)
- アブハッサン・ハシミ (2022年没)
- サアド・ブン・ウバーダ (636年没)