伝記
ステファン・ウロシュ1世は、1223年、初代セルビア王ステファン・ネマニッチの末子として生まれた。母アンナは、ヴェネツィア総督を務めたエンリコ・ダンドロの孫娘にあたる。異母兄にはステファン・ラドスラヴとステファン・ヴラディスラヴがいる。ブルガリアの影響が強まって不評を買い、それが反乱につながったとする説がある。反乱を起こした貴族たちはウロシュを王位の候補に推した。1242年から1243年春にかけて王位を争う戦いが続き、兄のヴラディスラヴが退位して、ウロシュが王となった。抵抗の中心になったのはヴラディスラヴの妻ベロスラヴァだったといい、ウロシュはヴラディスラヴを捕らえたらしい。ただ、ウロシュは兄に礼を尽くし、ゼタの統治をまかせた。ウロシュが出した特免状には、ヴラディスラヴの名も見られる。
即位した当時、国土はタタール人に荒らされ、内部の争いも広がっていたが、ウロシュはまもなく重要な問題を片づけたという。治世の初めには、隣国のエピロス専制侯国とブルガリア帝国がともに衰え、セルビアはこの機会に影響力を高めていった。1252年から1253年にかけて、セルビア王族のラドスラヴが所有する土地の帰属をめぐり、ウロシュはドゥブロヴニクを支配するラグーサ共和国と戦った。ラドスラヴはラグーサと共闘を誓い、ハンガリー王ベーラ4世を後ろ盾にしていた。ラグーサはブルガリアとも同盟を結んだが、1254年5月22日に和約が結ばれ、セルビアの危機は去った。ウロシュの治世には、国内の鉱山の採掘が再開された。ハンガリー経由で入ったザクセン人の鉱夫が働き、ノヴォ・ブルド、ブルスコヴォ、ルドニクなどの鉱山が開発された。ザクセン人の居住地にはドイツ風の自治とカトリックの信仰が認められた。鉱物の採掘と交易が増え、ヴェネツィアの硬貨をモデルにした貨幣が大量に流通するようになった。1260年ごろには、ラシュカ地方にソポチャニ修道院を建てた。ビザンツ人の画家の手によるとみられるフレスコ画の美しさで知られる。祖父ネマニャを手本とし、その新しい詳しい伝記の編集も後押しした。
1260年代半ばには、ふたたびラグーサと戦争になった。1266年、セルビアとビザンツの間で婚姻の交渉が行われた際、コンスタンティノープルの使節団は王宮とウロシュの暮らしを見て衝撃を受け、その様子を記録に残している。王侯貴族でありながら、ウロシュの生活は東のビザンツ帝国にくらべて質素だった。1268年にラグーサと和約が結ばれ、ラグーサは毎年セルビアに貢納することになった。この取り決めは14世紀まで続いた。同じ1268年、セルビアはハンガリー領だったドナウ川南岸(現在のセルビア北部)に攻め入った。緒戦では勝ったものの、ウロシュはハンガリー軍に敗れて捕虜となり、釈放金を支払わなければならなかった。和平が成立すると、ウロシュの子ステファン・ドラグティンと、ハンガリー王子イシュトヴァーンの娘カタリンの婚姻が決まった。
治世の末期、中央集権化を進めたウロシュは、ドラグティンへの領地の付与を拒んだ。親子の対立が深まり、ウロシュは末子のステファン・ウロシュ2世ミルティンに王位を継がせようと考えはじめた。身の危険を感じたドラグティンは、1276年、ハンガリーの支援を受けて王位を求め、反乱を起こした。セルビア軍は敗れ、ウロシュは退位を余儀なくされた。ウロシュはフムの修道院に隠棲し、1277年5月1日に没した。在位中は「偉大なる王」と称された。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネス21世 (ローマ教皇) (1277年没)
- ヤフヤー・ブン・シャラフ・ナワウィー (1277年没)
- コンスタンティン・ティフ (1277年没)
- 陳太宗 (1277年没)
- アブー=アブドゥッラー・ムハンマド・アル=ムスタンスィル (1277年没)
同じ地域に関係する人物
- ステファン・ラドスラヴ (1240年代没)