HISTORICAL PERSON · 1277年没

バイバルス

マムルーク朝第5代スルターン。アイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を破り、在位中に38回のシリア遠征を行った。実質的な建国者とも評される。

生涯
1277年没
死亡地
シリア共和国(ダマスカス県 / ダマスカス)
出生地
キプチャク草原
出典
世界地図
シリア共和国(ダマスカス県)

伝記

バイバルスは、マムルーク朝(バフリー・マムルーク朝)の第5代スルターン(在位1260年〜1277年)である。生年は1223年とも1228年ともされ、没年は1277年7月1日である。名前はテュルク語で「虎のベイ」を意味し、「アル=ブンドゥクダーリー」は最初の主人から与えられた「弓兵」の意の名だという。在位中の事績から、実質的なマムルーク朝の建国者と評価されることもある。

出身は黒海北方のキプチャク草原の遊牧民である。14歳ごろにモンゴル軍に捕らえられ、アナトリアのスィヴァスで奴隷商人に引き渡された。モンゴルの進攻後、中東の奴隷市場は供給過多で買い手がなかなか現れず、肌が褐色だという理由でハマーの王族の元から返され、ダマスカスでは800ディルハムで買われたものの、片目に白内障の斑点があるという理由でまた返却された。最終的に、アイユーブ朝のアミールであるアイダキーンに買い取られ、奴隷身分から解放された。1246年に主人とともにカイロへ移ったが、主人が財産を没収されたため、スルターン・サーリフ直属のバフリー・マムルークに編入され、20歳ごろに連隊長に昇進した。

1249年に、フランス王ルイ9世率いる第7回十字軍がエジプトに上陸してダミエッタを占領すると、サーリフが陣没し、一時バイバルスがバフリー・マムルークの指揮を執った。1250年2月のマンスーラの戦いでは、市内に突入したルイ9世の弟ロベールの騎兵隊を、彼が率いる部隊の反撃で壊滅させた。この勝利からアイユーブ軍の反撃が始まり、同年4月にルイ9世は捕虜となった。ところがサーリフの王子トゥーラーン・シャーがマムルークを追放・投獄すると、バイバルスは仲間とともに暗殺を企て、1250年5月に決行して、最初に彼を斬りつけたとされる。その後、マムルーク朝が成立したが、新スルターンのアイバクがバフリー・マムルークを危険視して1254年に長のアクターイを殺すと、バイバルスはエジプトを脱出して、ダマスカスやカラクのアイユーブ王族のもとを転々とする放浪の時期を送った。

1258年にモンゴルのフレグがアッバース朝を滅ぼした後、アラブ世界は恐慌に陥った。ダマスカスに亡命していたバイバルスは降伏を説く宰相を罵ったと伝えられ、やがてクトゥズと和解してカイロへ帰還した。前衛を率いて1260年9月のアイン・ジャールートの戦いに臨み、クトゥズの本隊とともにモンゴル軍に完勝した。しかし約束されたアレッポ総督の地位は反故にされ、同年10月、狩りの最中にクトゥズを刺殺した。テュルクの慣習に従い、とどめを刺した彼が新たなスルターンに推戴された。

即位後は、クトゥズの課した税を廃止し、市民への危害を禁じて人心を落ち着かせた。1261年にはアッバース朝最後のカリフの叔父アフマドを迎えてムスタンスィル2世として擁立し、統治を認める叙任状を得た。イスラム教徒のジョチ・ウルスのベルケと結んで、フレグに対抗した。在位17年の間に38回のシリア遠征を行い、モンゴル軍と9回、十字軍と21回交戦し、その半分は自ら指揮したとされる。その活躍はアラブ世界で英雄譚となり、語り部を通じて民衆に親しまれた。

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