HISTORICAL PERSON · 1277年没

陳太宗

陳朝の初代皇帝で、創始者陳守度の甥。8歳で李朝の女帝から禅譲を受けて即位し、成人後は科挙による人材登用や制度整備を進めた。モンゴル軍の侵攻を退け、譲位後も政治を執り禅の著作も残した。

生涯
1277年没
死亡地
—
出生地
ベトナム社会主義共和国(ナムディン省)
出典
世界地図
ベトナム社会主義共和国(ナムディン省)

伝記

陳太宗は、ベトナムの陳朝の初代皇帝である。名は陳煚といい、太宗は廟号にあたる。1218年7月17日に、現在のナムディン省にあたる地で、陳承の次男として生まれた。母は黎氏である。祖先は福建、あるいは桂州から移り住んだ人々だといわれる。叔父の陳守度が陳朝の実質的な創始者であり、太宗が皇帝になれたのも、この叔父の働きによるところが大きかった。

1225年10月、太宗は宮中に入って仕えるようになった。すると李朝の女帝である昭皇に見初められて遊び友達となり、まもなく結婚した。同じ年の12月12日(1226年1月11日)、陳守度や馮佐周の工作により、昭皇から位を譲られ、太宗はわずか8歳で帝位に就いた。皇帝が幼かったため、政務は陳守度が実際に執った。1226年2月ごろ、昭皇は皇后に立てられ、昭聖皇后と改められた。1229年には宋に使者を送り、安南国王に封ぜられた。成人して親政を始めると、科挙で有能な人材を登用し、制度を整えて、陳朝の土台を固めた。

1257年の秋、モンゴルの将軍ウリヤンカダイが、南宋を攻めるために領内の通過を認めるよう求める手紙を3通送ってきた。ベトナムが3人の使者を次々と投獄すると、ウリヤンカダイは侵攻してきた。同年11月から12月にかけて、紅河の北岸で両軍が衝突し、太宗は象に乗って自ら軍を率いた。しかしモンゴル軍が象の足元を矢で狙うと、象が驚いて暴れ、ベトナム軍は混乱して敗れた。翌日、扶老橋でも大きな敗北を喫し、首脳部は都のタンロンを離れ、太宗は瀘江口、さらに天幕口に退いた。タンロンはしばらく占領されたが、モンゴル軍は9日ほどで去り、ベトナム軍は追撃して打ち破ったともいわれる。

1258年、太宗は長男の聖宗(陳晃)に位を譲って太上皇となったが、その後も政治を執り続けた。同じ年、モンゴルに使者を送って国交を開いた。モンゴルでクビライが即位した翌年の1261年にも使者を送り、3年に一度の貢ぎ物を申し入れて、元から安南国王に封ぜられた。

太宗は儒教と仏教の両方に通じていた。譲位してからは禅の修行に打ち込み、大乗仏教に関する深い著作を残した。最も有名なのは、仏教の説法や文章を集めた『課虚録』で、ほかに『禅宗旨南』がある。多くの著作を書いたが、現存するのはその一部である。娘のアン・トゥはクビライの九男トガンに嫁ぎ、ティエン・タインは興道王の陳国峻の妻となった。太宗は1277年5月5日に亡くなった。在位は33年、譲位後の太上皇としての年月は19年である。

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