伝記
度宗は、南宋の第6代皇帝である。1240年に、理宗の弟である栄王趙与芮の子として紹興で生まれた。諱は最初は孟啓で、1251年に孜と改められ、理宗の後継者に指名された1253年に禥となった。理宗には跡継ぎがおらず、血縁では甥にあたる度宗を養子に迎えた。幼いころから節度のある言動が認められ、1260年(景定元年)6月に皇太子に立てられた。この立太子は、歴史家が今も理解しにくいとする出来事である。朱子学に傾倒していた理宗は後継者の養育に特別な気を配り、度宗も厳格な儒教の教育を受けた。
1264年10月、理宗の崩御により第6代皇帝として即位した。翌1265年には経界法を施行した。家ごとに土地を測量し、図面を作って台帳に記録するものだが、咸淳年間の経界法の目的は、隠し田を調べて土地の兼併を抑えることよりも、公田の買い戻しに必要なデータを得ることにあった。土地を実際に測量せず、従来の記録に基づいてその後の変動を調べるだけなので、精度は経界に及ばず、推排と呼ばれた。手続きは簡便で、1267年にはほぼ完了した。1268年には官荘を廃止して包佃制に改めた。佃主を募って請け負わせ、佃主がさらに農民に分けて耕させる仕組みで、佃主がそれまでの荘官の職責を代行するようになった。朝廷は平江、嘉興、安吉、鎮江などに、官田を管理する専門の機構を置いた。
しかし、実権は理宗の時代からの外戚で丞相の賈似道が握っており、度宗は年が若く、その専横を抑えられなかった。多くの官僚が賈似道の不正を訴えたが、度宗は賈を信頼し、頭を下げて「先生」と呼んだという。賈が辞職を考えたときには、度宗がひざまずいて涙ながらに留任を願ったとの逸話もある。度宗は国や軍の政務を賈に任せきりにして、酒と女性にふけり、豪奢に暮らした。宋の決まりでは、皇帝と関係をもった後宮の女性は翌日に宮門に参詣したが、その数は一日に30人を超えたことがあったという。度宗が襄陽は数年来モンゴル軍に包囲されているそうだがと尋ねると、賈は聞いていないと真顔で答え、度宗は宮女が話していたと返したという。
北方ではモンゴルが全方位から攻勢をかけ、南宋の国勢は危うくなっていた。咸淳9年(1273年)、南宋の重要な防衛拠点だった襄陽が元軍に落ち(1274年とする記述もある)、南宋の滅亡は決定的となった。襄陽の守将呂文煥は救援を求める使者を送ったが、度宗は新しい投石機の威力を聞いて襄陽を失ったものと考え、援軍を送らなかったとされる。陥落の知らせは賈似道によって度宗に伏せられたともいう。
度宗は1274年(咸淳10年)に35歳で崩御した。死因は酒色による脳溢血とされるが、宮廷医の重大な過失による急死とする説もある。皇后は全氏で、六男の趙㬎(恭帝)が4歳で即位した。ほかに五男の端宗と七男の祥興帝もおり、のちにそれぞれ第8代と第9代の皇帝となった。度宗は、宋で最後に銭を鋳造した皇帝である。
同じ年に亡くなった人物
- 元宗 (高麗王) (1274年没)
- 宗尊親王 (1274年没)
- イブン・マーリク (1274年)
- ロベール・ド・ソルボン (1274年没)
- エンリケ1世 (ナバラ王) (1274年没)