伝記
宗尊親王は、鎌倉幕府の6代将軍で、皇族として初めて征夷大将軍となった人物である。1242年に、後嵯峨天皇の皇子として生まれた。母は平棟基の娘の平棟子である。父に寵愛され、その育ての親ともいえる承明門院のもとで育てられた。1244年には、すでに久仁親王(のちの後深草天皇)が生まれていたにもかかわらず親王の宣下を受けた。1247年に式乾門院の猶子となり、翌年にはその姪の室町院とも猶子の関係を結んだ。1249年に式乾門院は、後高倉院から継いだ膨大な荘園を姪の室町院に一代限りで譲り、宗尊をのちの領主に定めた。後嵯峨天皇は宣陽門院にも、宗尊を猶子として長講堂領を譲るよう求めたが、断られた。母方の身分が低かったため、皇位に就く望みは薄く、後嵯峨天皇は宗尊の将来を案じていたという。
1252年、5代将軍の藤原頼嗣が京へ送還されたあと、宗尊は4月に11歳で鎌倉に迎えられた。異母弟の後深草天皇から征夷大将軍の宣下を受けた。将軍家と摂関家の両方を支配する九条道家の幕政への介入を警戒していた執権の北条時頼は、九条家を政界から排除したいと考えており、天皇と時頼の思惑が一致して、皇族将軍が生まれたのである。京を発つときには、藤原隆茂ら3人の近侍が随行したとされる。当時の幕府は、すでに北条氏の専制体制を整えており、将軍に権限はなかった。そのため宗尊は和歌に打ち込んで歌会を何度も開き、鎌倉では武家を中心とする歌壇が盛んになって、後藤基政や島津忠景ら御家人出身の歌人が育った。宗尊自身も『続古今集』で最も多く歌が採られた歌人となり、『柳葉和歌集』『瓊玉和歌集』『初心愚草』などの歌集がある。
1263年6月、宗尊が将軍として上洛すると発表され、供をする御家人の名簿や、10月3日に鎌倉を出る日程まで決まっていたが、直前に中止された。公式には災害が理由とされたが、御家人の経済的な負担が一番の理由とみられている。1265年9月には一品親王に叙され、中務卿に任じられた。
1266年6月から7月にかけて、鎌倉で理由のわからない騒動が起きた。宗尊の正室近衛宰子と娘が北条時宗の邸に入り、御家人たちが鎌倉に集まり、7月4日に宗尊は女房輿で北条時盛の邸に移り、8日に京へ送り返された。くわしい事情は不明で、宰子と幕府護持僧の良基との密通事件を口実に、謀叛の疑いをかけられたとする見方もある。20日に入京して六波羅邸に入り、将軍を辞した。両親は義絶を宣言し、24日には鎌倉で子の惟康王が次の将軍に就いた。10月には承明門院の旧邸に移った。幕府が11月に使者を送って後嵯峨上皇に取りなし、所領5か所を献上すると、宗尊は12月にようやく父と対面した。
1267年9月に宰子が出家した。1270年に妻妾の堀川具教の娘が次男の真覚を産んだ。1272年2月、二月騒動で側近の中御門実隆が拘束され、その直後に父の後嵯峨法皇が崩御したため、宗尊は出家して、法名を覚恵、あるいは行証といった。この年には堀川具教の娘が次女の瑞子女王を産んでいる。宗尊は1274年に33歳で死去した。筆跡も知られ、真跡とされるものに有栖川切、催馬楽切、古今集切、神楽歌切があり、名筆家という評価は揺るがない。