伝記
キト・ブカは、モンゴル帝国の将軍で、フレグに仕えた人物である。ナイマン族の出身でキリスト教徒であり、ケドブカとも表記される。生年は伝わらず、1260年9月3日に戦死した。1251年にモンケが第4代カアンに即位すると、オノン川の源流付近で開かれたクリルタイで、ペルシアへ軍を送ることが決まり、司令官には弟のフレグが指名された。各帝室の諸王侯は10人に2人の兵士をフレグに出し、部隊は王侯の近親者が率いることになった。キト・ブカは1252年7月末ごろ、1万2000の前衛部隊を率いて先に出発した。
フレグがホラーサーンのザーヴァ地区に着いたとき、キト・ブカはすでに2年前からクーヒスターンを攻めていたが、いくつかの要塞を落とせずにいた。フレグはココ・イルゲイとキト・ブカにこの地方の征服を終えるよう命じ、二人はトーンの城鎮を攻略して住民を殺し、征服を完了させた。1256年にはニザール派の討伐に従った。ニザール派のルクヌッディーン・フールシャーは服従を誓いながら直接来ないため、フレグは催促を重ね、居城を包囲した。ルクヌッディーンは幼児を自分の子と偽って送るなど言い逃れを続けたので、フレグはキト・ブカをネグデル・オグルとともに左翼に置き、自ら中軍を率いてマイムーン・ディズ要塞の攻略にかかった。11月19日、ルクヌッディーンはついに降伏して出頭し、財宝を献上した。
その後のアッバース朝との戦いでも、キト・ブカはフレグの命を受けて動いた。ダルタンク要塞の守将アッケは、ハリーファに恨みがあったためフレグの恩恵を受け、ほかの要塞の占領を命じられてそれに従ったが、すぐ我に返ってハリーファに自分の罪を報告した。しかし許されなかった。フレグはキト・ブカに命じて彼を捕らえさせ、家族と軍隊とともに処刑した。バグダードの包囲では、2月10日にハリーファのムスタアスィムが子らと3千人を従えて投降した。ハリーファとその子や随行者らは、カルワーザー門に面したキト・ブカの軍営に移され、厳重に監視された。
1260年1月、アイユーブ朝のアル=ナースィル・ユースフはアレッポ陥落の報を聞くと、ダマスクスを無防備のまま残して出発した。ダマスクスの人々は城をモンゴル軍に引き渡すことを決めたが、城塞はなお降伏せず、3月にキト・ブカが包囲して投石機で攻撃し、4月に陥落した。モンゴル軍はこれを掠奪して建物を焼き、城楼の大部分を壊した。フレグはアレッポでモンケの死を知ると、キト・ブカにシリアの軍司令を任せて帰途につき、途中でクビライとアリクブケの帝位継承戦争を聞いて西アジアに留まった。ナースィルはズィーザ湖畔でモンゴルの分遣隊に捕らえられ、キト・ブカのもとに連れられた。キト・ブカは彼を使ってまだ従わなかったアージルーン要塞を帰順させたのち、タブリーズのフレグのもとへ送った。
1260年9月、マムルーク朝のスルターンのクトゥズが侵攻すると、キト・ブカはシリアの軍を集め、アイン・ジャールート平原で戦った。何度も突撃を繰り返したが、モンゴル軍の首領の大半を失い、キト・ブカ自身も敵将ジャマールッディーン・アクーシュによって討たれ、敗残兵もことごとく殺された。この敗北を聞いたフレグは、ナースィルがマムルーク朝に寝返ると見て、すぐに彼らを殺すよう命じ、一人の占星学者を残してすべてを殺害した。シリアにフレグが置いた長官は虐殺され、シリアはマムルーク朝に占領されてモンゴル軍は撤退した。
同じ年に亡くなった人物
- ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア (プロヴァンス伯妃) (1260年代没)
- アルブレヒト1世 (ザクセン公) (1260年没)
- ヨルダヌス・ネモラリウス (1260年)
- マリー・ド・リュジニャン (ウー女伯) (1260年没)
- マリー・ド・ブラバン (1190-1260) (1260年没)
同じ地域に関係する人物
- リム・バンナ (2018年没)
- マリー・ド・モンフェラート (1212年没)
- Andronikos Doukas Angelos (1185年没)
- Samih al-Qasim (2014年没)
- ティボー5世 (ブロワ伯) (1191年没)