HISTORICAL PERSON · 1260年没

マリー・ド・リュジニャン (ウー女伯)

ウー伯ラウル2世の一人娘で、父の死によりエクソダン女領主・ウー女伯となった。1249年ごろエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの子アルフォンスと結婚し、夫はウー伯となった。ジャン2世ら子女が生まれた。

生涯
1260年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

マリー・ド・リュジニャンは、マリー・デクソダンの名でも知られる、13世紀のフランスのウー女伯である。生まれは1232年ごろとされるが、1223年ごろとする説もある。父はウー伯ラウル2世・ド・リュジニャン、母はその2番目の妃ヨランド・ド・ドルーで、ドルー伯の娘にあたる。マリーは夫妻の一人娘だった。祖母はアリックス・ドゥーである。マリーは、ポワトゥーのリュジニャン家から分かれたエクソダン系の最後の一人にあたる。

1246年に父が亡くなると、マリーはエクソダンの女領主となり、ウー女伯の位を継いだ。シヴレ、メル、ブネなどの領主でもあった。結婚の時期は、1245年ごろ、1249年ごろ、遅くとも1250年以前など、説が分かれる。相手は、エルサレム王でラテン帝国の皇帝にもなったジャン・ド・ブリエンヌの子で、1227年ごろに生まれ1270年に没したアルフォンス・ド・ブリエンヌである。その母はベレンガリア・デ・カスティーリャという。この結婚によってアルフォンスはウー伯となった。祖母のアリックス・ドゥーと、ブランシュ・ド・カスティーユのあいだの合意から生まれた、政治色の濃い結婚だったという。二人のあいだには4人の子が生まれたとされる。長男のジャンは、1250年ごろから1294年まで生き、ウー伯を継いだ。

シゼの領主だったのは1246年から1256年までとされ、マリーは夫にシゼの城主領を与え、封主のアルフォンス・ド・ポワティエに、夫の臣従を受け入れるよう求めた。1256年に使われた印章には、立った姿の貴婦人が百合の花を手にし、小さな犬と二つの薔薇を添えた図が刻まれている。マリーは、父の紋章だけを掲げることで、リュジニャン家の一員であることを示し続けた。娘のイザベルはダンピエール領主ジャン2世と結婚し、マルグリットはトゥアール女子爵となり、1260年ごろに生まれたブランシュはモビュイソン女子修道院の院長になった。マリーは1260年10月1日に、ポワトゥーのメルで亡くなったとされ、ノルマンディーのフーカルモン修道院に葬られた。

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