HISTORICAL PERSON · 1191年没

ティボー5世 (ブロワ伯)

ブロワ伯として1171年にヨーロッパ大陸初とされる血の中傷事件の裁判を主導しユダヤ人30人余りを処刑させ、後に第3回十字軍のアッコ包囲戦中に病死した。

生涯
1191年没
死亡地
イスラエル(北部地区 / アッコ)
出生地
—
出典
世界地図
イスラエル(北部地区)

伝記

ティボー5世は、ブロワ伯、シャルトル伯、シャトーダン伯をつとめた人物で、善良伯とも呼ばれる。1130年に、ブロワ伯でシャンパーニュ伯ティボー4世と、その妻マティルド・ド・カランティの次男として生まれた。兄にシャンパーニュ伯アンリ1世、妹にフランス王ルイ7世の3番目の妃アデルがいる。ほかに、シャルトル司教から枢機卿となったギヨームと、サンセール領主のエティエンヌがいた。叔父には、イングランド王スティーヴンと、ウィンチェスター司教のブロワのアンリがおり、一族は強い力を持っていた。

1152年に父が亡くなり、ラニーに葬られた。ティボーはブロワ伯とシャルトル伯を継ぎ、父の晩年の政策を受け継いで、フランス王ルイ7世に忠実に仕えた。ルイ7世は、ティボーをフランス大執事に任じた。ティボーはこの職に就いた最後の人物となった。1160年にも王の側にあった。1164年には、ルイ7世と最初の王妃アリエノール・ダキテーヌの次女アリックスと結婚した。最初の妻シビーユ・ド・シャトー=ルナールとのあいだには子がなく、その領地シャトー=ルナールを得ていた。同じ年に、兄アンリ1世も、アリックスの姉マリーと結婚した。2人のあいだには、7人の子が生まれた。

1171年、ブロワで、ティボーは、ユダヤ人共同体の男女と子ども、30人から31人を火あぶりにした。キリスト教徒の子どもが行方不明になったことから、教会の裁判で儀式殺人の罪に問われたのである。ヨーロッパ大陸で最初の血の中傷だったとされる。ティボーは、兄に対する立場の弱さと、財政の苦しさから、儀式殺人を口実にして政治的な立場を固め、犠牲者の財産を取り上げようとしたらしい。ティボーは主にシャルトルに住み、その城壁を修復した。

1173年に、ヘンリー2世の子らが父に反乱を起こして王の敵と連合したときも、ティボーはルイ7世の側にとどまった。ルイ7世が亡くなり、フィリップ2世が即位すると、フィリップ2世がイングランド王の子らと良い関係を保つなか、ティボーは兄アンリや、フランドル伯フィリップとともに、アルトワ伯領などをめぐって若い王に逆らった。しかしその後、甥にあたる王と和解し、忠実な支持者となった。1190年、弟エティエンヌとともにフィリップ2世に従って、第3回十字軍に加わり、夏に聖地へ着いた。1191年1月20日、アッコの包囲戦のさなか、赤痢で亡くなった。遺体は本国に運ばれて、ポンティニー修道院に葬られた。十字軍に出ているあいだ、妻アリックスがブロワ伯領の摂政をつとめ、夫の死後は幼い息子ルイのために摂政を続けた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物