伝記
マリー・ド・モンフェラートは、1192年に生まれ、1212年に没した、エルサレム王国の女王(在位1205年から1212年)である。イタリア名はマリーア・ディ・モンフェッラートという。モンフェッラート侯コンラート1世とエルサレム女王イザベル1世の長女で、父の死後に生まれた。父のコンラートは、1192年4月28日、ティールで暗殺教団に殺された。母イザベルは身重であり、エルサレム王国は、細い海岸地帯だけの小さな国になっていて、男性の統治者を欠いていた。そこで、シャンパーニュ伯アンリ2世が、正統性を得るため、1週間以内に身重のイザベルと再婚した。一方、キリスト教徒の間では、イザベルの最初の夫トロン領主オンフロワ4世が存命であるため、最初の結婚が正しく解消されたかを疑い、その後の結婚やその子の正統性にも疑問を持つ者がいた。アンリは、コンラートの子が男子で王国の継承者になることを心配したが、継娘の誕生は問題と考えなかった。マリーは1192年にティールで生まれ、イザベルのビザンツ人の母、王太后マリア・コムネナにちなんで名づけられた。
母イザベルとアンリの間には、アリスら3人の娘が生まれたが、アンリは、1197年9月10日に窓から転落して死んだ。イザベルはすぐ4人目の夫、キプロス王エメリーと再婚し、2人は1198年にエルサレムの王と女王として戴冠して、3人の子をもうけた。
1205年、イザベルの王国を継ぐはずだったアモーリーと父エメリーが没し、まもなくイザベルも没して、5人の娘が残された。最年長のマリーが、13歳で跡を継ぎ、次女のアリスが推定相続人となった。王国の貴族たちは、イザベルの母方の異父弟、ベイルート卿ジャン・ド・イブランを摂政とすると決めた。これは、イザベルの望みと、王位の請求が母方に由来するときは、母方で最も近い親族が摂政になるという王国の法にかなっていた。ジャンは3年間、平穏にマリーの名で統治した。マリーは、政府の行いの多くに正式に同意したが、まだ女王の称号を名乗らず、「王国の尊き貴婦人」と呼ばれた。
マリーの夫は、1205年から探された。父方のアレラミチ家は、王国の事情にも結婚にも無関心で、叔父ボニファチオが建てたテサロニキ王国のことに気をとられていた。1206年、叔父ジャンと祖母マリア・コムネナは、野心的で聖地に関心のあるアラゴン王ペドロ2世が最良の相手だと決めた。ペドロはすでに結婚しており、婚姻の無効が必要であった。1207年11月1日までに十分な軍事援助を持ってくれば、マリーはペドロと結婚するという協定が結ばれた。しかし、教皇インノケンティウス3世が、ペドロの婚姻の無効の決定を急がなかったため、この結婚は実現しなかった。1208年には使節がフランス王フィリップ2世を訪ね、有能な候補者を探すよう頼んだ。1210年、王は、ジャン・ド・ブリエンヌが承知したと告げた。ブリエンヌ伯家はシャンパーニュ伯家の家臣であったため、ジャンの身分はマリーよりずっと低かった。
1210年9月14日、マリーはアッコで、ジャン・ド・ブリエンヌと結婚し、ともに戴冠した。ジャンはジャン・ド・イブランから統治を引き継ぎ、マリーは王としてのジャンの行いに同意した。1212年、マリーは唯一の子ヨランド(イザベル2世)を産んだ後、産褥熱で死んだ。ヨランドはただちに即位し、ジャンが摂政となった。マリーの直系の子孫は、1268年にコンラート3世が南イタリアで処刑されて絶え、その後、マリーの異父妹アリス・ド・シャンパーニュの血統が、エルサレム王位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- アンナ・アンゲリナ (1212年)
- ヴァロワの聖フェリクス (1212年)
- ベアトリッツ・デ・ディア (1212年)
- ダヴィド・コムネノス (1212年没)
- Guilhem de Cabestany (1212年没)
同じ地域に関係する人物
- バハオラ (1892年没)
- ユーグ3世 (ブルゴーニュ公) (1192年没)
- イツハク・ルリア (1572年没)
- ピエール1世・ド・クルトネー (1180年代没)
- アンリ2世 (シャンパーニュ伯) (1197年没)