HISTORICAL PERSON · 1260年没

マリー・ド・ブラバン (1190-1260)

ブラバント公アンリ1世の娘で、神聖ローマ皇帝オットー4世の2番目の妃。1214年に結婚し、皇帝の死後はホラント伯ウィレム1世と再婚した。1237年にヘルモントにビンデレン修道院を創建した。

生涯
1260年没
死亡地
ベルギー王国(フラームス=ブラバント州 / ルーヴェン)
出生地
ベルギー王国(ルーヴェン)
出典
世界地図
ベルギー王国(フラームス=ブラバント州)

伝記

マリー・ド・ブラバンは、1190年ごろに生まれ、神聖ローマ皇帝オットー4世の2番目の妃となった女性である。ブラバント公アンリ1世と最初の妃マティルドの長女で、母はブローニュ伯マチュー・ダルザスと女伯マリーの娘にあたる。父は1183年に皇帝フリードリヒ1世からブラバント公の位を与えられ、1190年には下ロートリンゲン公領を帝国の拠点として与えられた人物である。1198年、マリーは8歳ほどで、ヴェルフ家のオットーと婚約した。オットーはハインリヒ6世の後継として、ローマ王に選ばれたばかりのころで、シュヴァーベン公フィリップと王位を争っていた。この年の7月、父は十字軍に参加しており、その間に婚約が結ばれたとされる。マリーは、ケルン大司教アドルフによってアーヘンで行われたオットーの戴冠式に出席している。

しかし結婚はホーエンシュタウフェン家との対立のために延びた。父は当初ヴェルフ家を支えたが、やがて態度を曖昧にし、1204年にはフィリップと同盟を結んで、婚約は流れたかに見えた。事態が変わったのは1208年で、フィリップが暗殺され、オットーが唯一のローマ王となった。1209年にはオットーが教皇インノケンティウス3世から皇帝の冠を受けた。アンリ1世は急いでオットーと和解し、娘の結婚が再び話題に上ったが、このときも実現しなかった。オットーはシチリア王国をめぐって教皇と争い、破門された。1211年9月には、ホーエンシュタウフェン家の若いフリードリヒが対立王に選ばれた。その1年後の1212年7月、オットーはフィリップの娘ベアトリクスと結婚したが、ベアトリクスは結婚から3週間足らずで世を去った。

ホーエンシュタウフェン派からオットーに寝返っていた者の多くがフリードリヒのもとへ戻り、1212年12月にはフリードリヒがマインツ大司教ジークフリート2世により王に戴冠された。追い詰められたオットーにとって、マリーとの婚約が再び意味を持った。1214年5月19日、マーストリヒトで二人の結婚が行われた。マリーは24歳ほど、オットーは39歳ほどだった。皇后としての期間は、帝国が二つに割れたなかのものである。2か月後の7月27日、フリードリヒがフランス王フィリップ2世と結んで引き起こしたブーヴィーヌの戦いで、オットーの軍は大敗した。オットーは軍勢を失い、ザクセンのブラウンシュヴァイク周辺のヴェルフ家の領地に、妻とともに退くしかなかった。1215年7月5日にオットーは事実上廃位され、フリードリヒが7月25日にドイツ王に再び戴冠した。マリーは、衰弱して重い病にかかった夫に付き添い、1218年5月19日にハルツブルク城でオットーが亡くなるまで過ごした。夫婦に子はなかった。

マリーは2年ほど寡婦でいたのち、1220年7月にホラント伯ウィレム1世と再婚した。しかしウィレム1世は2年後の1222年2月4日に亡くなった。伯には少なくとも5人の子が残され、前妻アーデルハイトの子とみられている。ここでも子は生まれなかった。マリーは夫の死後38年生き、再婚はしなかった。寡婦となった後は再び皇后の称号を使うようになり、1237年にはヘルモントにシトー会のビンデレン修道院を創建した。1260年の5月か6月に没し、ルーヴェンのサン・ピエール教会に葬られた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物