HISTORICAL PERSON · 紀元前87没

プブリウス・スルピキウス・ルフス

ローマの政治家・弁論家。暴力を伴う強引な立法を試みてマリウスとスッラの対立を深め、スッラのローマ進軍の口実を与え、内戦のきっかけを作った。

生涯
紀元前87没
死亡地
古代ローマ(ローマ県 / ローレンタム人)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
古代ローマ(ローマ県)

伝記

プブリウス・スルピキウス・ルフスは、共和政ローマの政治家であり弁論家である。おそらく紀元前124年に生まれ、紀元前88年に没した。民衆の暴力の力を借りて物議をかもす法案を通そうとしたことが、ローマ最初の内乱の引き金になったとされる。その行動はマリウスとスラの対立に火をつけ、スラがローマへ進軍する口実を与えた。

出自の詳細は明らかでないが、当代きっての有力者と親しく交わっていたことから、高い身分の生まれだった可能性が高い。弁論家のクラッススやマルクス・アントニウスとは親友であり弟子でもあり、本人も同世代屈指の弁論家と見なされた。また、マルクス・リウィウス・ドルススと、カエサルの叔父にあたるガイウス・アウレリウス・コッタという、同じく名門出身の友人とともに、元老院の年長世代が将来に期待を寄せる、才気と活力にあふれた若い貴族の集まりをつくった。

紀元前95年、スルピキウスは貴族層の後押しを受けて、元護民官ガイウス・ノルバヌスを雄弁に告発したが、成功しなかった。これが最初の大きな公の舞台であり、その後も法廷で弁護人として活動を続けた。やがて、紀元前91年に護民官を務めたドルススの盟友として政治に関わるようになる。この仲間たちは穏健な改革に共感していたらしい。ドルススは護民官として、裁判権を騎士身分から元老院へ移すこと、イタリアの同盟市の不満を抱く非市民に完全な市民権を与えること、貧民への土地と穀物の分配といった改革を提案した。その事業を引き継ぐため、コッタが紀元前90年に、スルピキウス自身が紀元前89年に護民官となることになっていた。しかしドルススの改革は多方面の利害に応えようとして失敗に終わった。騎士身分は裁判権を奪われることに強く抵抗し、ドルススは彼らと元老院貴族の双方に受け入れられる妥協点を見いだせなかった。紀元前91年9月、スルピキウスも居合わせたトゥスクルム近郊のクラッススの別荘での支持者の集会の直後にクラッススが亡くなり、ドルススは元老院での師であり最大の支援者を失った。ドルスス自身もまもなく不可解な状況で殺害された。市民権の望みを断たれたイタリアの同盟市は反乱を起こし、同盟市戦争が始まった。開戦後は政治的な訴追が相次いだ。コッタは有罪を避けて亡命を強いられ、スルピキウスも、反乱軍との戦いに従軍していたためか、辛うじて訴追を免れた。

その後まもなくスルピキウスはマリウスと民衆派の側に立つことを表明し、同時代には意外な転向と受け止められた。キケロは、民衆の風が、出発点では優れた立場にあったスルピキウスを、本人が望んだよりも遠くへ運んだと評している。彼は多額の借金を抱えており、すでにスラが任じられていたミトリダテス戦争の指揮権をマリウスが得たあかつきには、金銭的な援助を受ける約束があったらしい。マリウスにその指揮権を与えるため、スルピキウスは、新たに市民権を得たイタリア人や解放奴隷が旧来の有権者を圧倒することになる投票法案を提出した。元老院の多数は強く反対し、執政官のスラとポンペイウス・ルフスは公務の停止を宣言したが、マリウスとスルピキウスが暴動をあおったため、執政官らは身の危険を感じて停止を撤回した。スルピキウスの提案は法となり、新しい投票者の助けで、無官のマリウスに指揮権が与えられた。

ノラにいたスラは、ただちにローマへ進軍した。抵抗できなかったマリウスとスルピキウスは都から逃れた。マリウスはアフリカへ逃げのびたが、スルピキウスはラウレントゥムの別荘で発見されて殺され、首はスラのもとへ送られフォルムにさらされた。法は廃止された。

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