HISTORICAL PERSON · 紀元前87年没

クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス

詩人・歴史家でもあった共和政ローマの政治家・軍人。スキピオ・サークルの一員とされ、執政官選挙に三度続けて落選したが、紀元前102年に執政官を務めた。半弟に紀元前90年の執政官ルキウスがいる。

生涯
紀元前87年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

クィントゥス・ルタティウス・カトゥルスは、紀元前150年ごろに生まれ、紀元前87年に没した共和政ローマの政治家・軍人で、詩人・歴史家でもあった。紀元前102年に執政官を務めた。平民のルタティウス氏族の出身で、氏族最初の執政官は紀元前242年のガイウス・ルタティウス・カトゥルスだったが、その後100年以上高位の官職者が出ておらず、歴史家ミュンツァーは氏族が紀元前2世紀の終わりには没落していたとみている。それでもカトゥルスは有力な貴族であるセルウィリウス氏族の出身の妻を迎えており、氏族は一定の重みを保っていたことがうかがえる。

父も同名のクィントゥスだが、カトゥルスの幼いころに亡くなったらしい。母はポピッリウス氏族の出で、貴族のルキウス・ユリウス・カエサルと再婚した。この結婚で生まれた半弟が、紀元前90年の執政官ルキウス・ユリウス・カエサルとガイウス・ユリウス・カエサル・ストラボ・ウォピスクスである。年は離れていたが、生涯にわたって温かい関係を保った。キケロによればカトゥルスは「スキピオ・サークル」の一員で、スキピオ・アエミリアヌスらがギリシア哲学者のローマ到着を喜んだ様子を何度も語っていたという。ヌマンティア戦争に従軍した可能性があり、ガイウス・グラックスの演説も聞いていたと思われる。遅くとも紀元前121年までにはクィントゥス・セルウィリウス・カエピオの娘と結婚した。紀元前109年ごろにはおそらく法務官を務め、シキリアのような穀物の輸出地域に総督として派遣されたと考えられる。

紀元前107年末、義兄弟のカエピオとともに執政官に立候補したが、カエピオだけが当選して落選した。翌年も敗れ、当選したのは新人のグナエウス・マッリウス・マクシムスだった。マッリウスとカエピオは後にアラウシオの戦いでキンブリ族に大敗する。紀元前105年末の三度目の出馬も、新人ガイウス・フラウィウス・フィンブリアに敗れた。カエピオの敗戦が響いたとみられる。三度の落選は政治歴の終わりを意味し、カエピオは追放刑となって支援も失われた。

ところが紀元前104年から5年連続で執政官となったガイウス・マリウスは同僚を選ぶ権利さえ得ており、紀元前102年にはカトゥルスが選ばれた。理由には諸説がある。反マリウス派の勝利とみる説、マリウスの支援による当選とみる説、妻の実家の支援を挙げる説などである。プルタルコスはカトゥルスを「貴族の間で尊敬され、同時に民衆に好まれる人物」と呼んでいる。

この年、勝利したゲルマン人はイタリアへの移住を決意した。マリウスがテウトネス族を迎え撃つ一方、カトゥルスはガリア・キサルピナで、キンブリ族の進路を塞ぐ任務に就いた。決戦前夜にスッラが配下に加わり、のちに最も親しい友人となった。マリウスがアクアエ・セクスティアエで完勝したのに対し、カトゥルスはキンブリ族がブレンナー峠を越えたと知って軍を移したが、先遣の騎兵が敗れ、副官のマルクス・アエミリウス・スカウルスは怖気づいてのちに自決した。カトゥルスはアテシア川の要塞に籠ろうとして包囲されかけ、さらに退却した。プルタルコスによれば、自ら軍旗を掲げて退却軍の先頭に立った。要塞に残った軍団はケントゥリオのグナエウス・ペトレウスが率いて脱出し、ペトレウスはカトゥルスとマリウスから名誉の花輪を授けられた。カトゥルスは前執政官として指揮権を延長され、紀元前101年7月30日、マリウスとともにウェルケラエでキンブリ族と戦った。

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