HISTORICAL PERSON · 紀元前87年没

マルクス・アントニウス・オラトル

弁論家として知られ、紀元前99年に執政官、97年にケンソルを務めた。前年の執政官カルボを告訴して自決に追い込み、法務官としてキリキアの海賊討伐へ派遣され、凱旋式を挙げて執政官に当選した。

生涯
紀元前87年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
—
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

マルクス・アントニウス・オラトルは、紀元前143年に生まれ紀元前87年に没した共和政ローマの政治家で、紀元前99年に執政官(コンスル)、紀元前97年に監察官(ケンソル)を務めた。「オラトル」は家族名ではなく愛称で、弁論家として知られる。平民のアントニウス氏族の出身で、氏族最初の執政官である。

若い頃から問責演説で名を上げた。紀元前113年に財務官に選ばれ、アシア属州へ赴く途中で近親相姦の罪で告訴されたが、法廷を避けられる立場にありながらローマに戻って無実を証明し、その後に任地へ戻った。1年後には前年の執政官カルボを告訴し、有罪となったカルボは自決した。この告訴は名声を求める願望だけで行われたとの説もある。紀元前102年に法務官を務めたころには、重要な法廷事件を扱う弁護士として上流階級と結びついていた。元老院は彼をキリキアの海賊との戦いに東方へ送った。任地へ向かう途中、アテナイとロードスに何日も滞在している。作戦は大規模ではなく、残る記録は、マリウスの義兄弟でキケロの大叔父にあたるグラディティウスの戦死くらいだが、ローマは海岸沿いに多くの要塞を築いた。

紀元前100年、オラトルは帰国して12月に凱旋式を行い、同時に執政官選挙に当選した。選挙の時にはローマにおらず、当選にはマリウスの支援が大きかったと考えられる。この年は元老院と護民官サトゥルニヌスの対立が頂点に達し、サトゥルニヌスとグラウキアは殺害された。サトゥルニヌスの支持者グラウキアは、オラトルらと共に執政官選挙に立候補しており、オラトルが先に当選したが、選挙当日にメンミウスがサトゥルニヌスの支持者に殺害された。サトゥルニヌス派は鎮圧に出動したマリウスの軍にフォルムで敗れ、降伏後に襲撃されて殺された。オラトルはローマにいなかったが、共和国を救うために団結した「輝かしい男たち」の一人と呼ばれる。同僚の執政官は貴族のアルビヌスだった。この年、サトゥルニヌスに反対して追放されていたメテッルス・ヌミディクスの帰還を求める元老院議員がいたが、オラトル自身は関与しなかった。ヌミディクスが友人マリウスの政敵だったことを考慮したのであろうとされる。紀元前99年の任期中には、護民官ティティウスの農業法案に反対したが、法案は成立し、すぐ鳥占官の権限で廃案となった。

執政官の後は弁護で活躍した。おそらく紀元前98年、権力濫用で告発されたマニウス・アクィッリウスの弁護人となり、胸のチュニックを破って傷跡を見せ、裁判官たちに強い恐れを抱かせて無罪を得た。紀元前97年に監察官となり、護民官ドゥロニウスを元老院から除名したが、ドゥロニウスは任期後にオラトルを収賄罪で告訴した。この告発は却下されたとされる。紀元前95年にはマリウスの同志ノルバヌスを弁護し、元老院筆頭スカウルスの証言にも反論して無罪を勝ち取った。

紀元前91年に同盟市戦争が始まると、同盟都市の反乱を扇動したと非難され、熱烈な演説で自分を弁護した。結果は不明で、戦争の間ローマにいなかったとされることから、出征して無罪になったとも、自発的に亡命したとも解釈される。紀元前88年にはローマに戻っており、スッラとマリウスの双方に武装解除を提案したという。ただし提案は無視された。スッラがローマを占領したのち、元老院がマリウスを国家の敵とする提案をほぼ全会一致で承認した際、反対したのはスカエウォラだけで、オラトルを含む他の者は沈黙していた。そして紀元前87年に没した。

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