HISTORICAL PERSON · 1555年没

ユリウス3世 (ローマ教皇)

対抗宗教改革期のローマ教皇(在位1550〜1555年)。トリエント公会議の第1会期で指導的役割を果たし、教皇として第2会期を開いたが成果なく休会した。芸術を愛し、パレストリーナをローマに招いた。

生涯
1555年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ユリウス3世は、ルネサンス教皇の最後の一人ともいわれる対抗宗教改革期のローマ教皇である。本名はジョヴァンニ・マリア・チオッキ・デル・モンテといい、1487年9月10日に生まれた。生地はローマともモンテ・サン・サヴィーノともいわれる。父は名の知られた法律家であり、本人は人文主義者に学んだのち、ペルージャやシエナで法学を修めた。神学者というよりも、優れた教会法学者として頭角を現したとされる。

伯父は大司教を経て枢機卿となっており、その後を継いで大司教の地位を得た。1520年にはパヴィアの司教も兼ねている。愛想がよく、行政の手腕にも敬意を集めたといわれ、ローマ総督を二度務めた。1527年のローマ劫略のときには、教皇クレメンス7世が神聖ローマ帝国軍に差し出した人質の一人となり、処刑される寸前であったが、コロンナ家のポンペオ枢機卿の尽力で秘密裏に解放された。教皇パウルス3世のもとで1536年に枢機卿となり、1543年にはパレストリーナの司教枢機卿に上った。パウルス3世の有能な補佐役として重用され、1545年のトリエント公会議では、チェルヴィーニ(のちのマルケルス2世)、レジナルド・ポールとともに議長と教皇特使を務めた。1547年に公会議をボローニャへ移した際には、皇帝カール5世を憤慨させている。

パウルス3世の没後のコンクラーヴェは、皇帝派、フランス派、ファルネーゼ家支持者の三派に分かれて争った。10週間に及ぶ選挙の末、各派の妥協の産物としてデル・モンテが選ばれ、恩人ユリウス2世にちなんでユリウス3世を名乗った。皇帝もフランスも本来は彼を好まず、皇帝は受け入れ可能な候補の名簿から外していたとされる。最初の仕事は、支持に功のあったオッターヴィオ・ファルネーゼをパルマ公として承認することであった。ところがオッターヴィオがフランスに援助を求めると、教皇は皇帝と結んで領地の没収を宣言し、甥のジャンバッティスタ・デル・モンテの指揮する軍を送って、パルマ戦争を招いた。

1551年にはカール5世の求めで中断していたトリエント公会議を再開したが、フランスが強く反対したため、フランスの司教はほとんど参加しなかった。1552年にザクセン選帝侯モーリッツが勝利して皇帝の勢いが衰えると、教皇はフランスと妥協して公会議を休会にした。公会議は、のちの教皇ピウス4世が再開するまで中断される。一方、イングランドにはポール枢機卿を使節として派遣し、1553年にメアリー1世が即位すると、束の間ながらカトリックへの復帰を歓迎した。

在位の初めには教会改革への強い意欲を評価されたが、やがて熱意を失い、芸術や享楽に関心を移した。ミケランジェロをサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任じ、ヴィニョーラに建てさせたヴィラ・ジュリアで取り巻きと華やかに暮らした。パレストリーナをローマに招いて教皇礼拝堂の楽長にも任じている。パルマで拾った17歳の少年インノチェンツォを兄弟の養子とし、枢機卿に任命したことは大きな非難を呼んだ。イエズス会には1550年に特別な保護を与え、1552年に創設したドイツ人司祭養成のための学院もその手に委ねた。晩年の三年間に目立った活動が少なかったのは、頻繁で重い痛風の発作のためであったかもしれないとされる。死の直前には、アウクスブルクの和議に聖座の利益を代表させるため、ジョヴァンニ・モローネ枢機卿を派遣している。1555年3月23日に67歳で世を去った。後継にはマルケルス2世、続いてパウルス4世が選ばれた。

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