伝記
ルドルフ2世は、ハプスブルク伯で、ハプスブルク家の祖の一人である。「善良伯」あるいは「老伯」と呼ばれた。1168年に、アールガウのハプスブルクで生まれた。父は、チューリヒ伯で下アルザスの宗主でもあった「富者」アルブレヒト3世、母はルドルフ・フォン・プフルレンドルフの娘イタである。のちのドイツ王ルドルフ1世の祖父にあたる。父の死後の1199年に、ハプスブルク伯となり、上アルザスの方伯にもなった。上アルザスの方伯領は、エギスハイム伯家が絶えたあと、皇帝フリードリヒ1世が父アルブレヒトに与えたものだった。ルドルフは、アールガウ、フリックガウ、チューリヒガウの一部の伯で、ラウフェンブルクの領主でもあった。父から、現在のスイスとアルザスにある多くの所領を継ぎ、母から、シュヴァーベンのプフルレンドルフ伯領と、皇位をねらうヴェルフ家の女系の継承権を受け継いだ。
1200年ごろ、ドイツの王位争いでは、はじめオットー4世の側に加わったが、のちにシュタウフェン家の陣営へ移り、皇帝フリードリヒ2世とは個人的な関係をもった。1212年9月、若いフリードリヒに加わった。1213年にはハーゲナウの宮廷におり、フリードリヒのため、ロートリンゲン公に対して、1000マルクという多額の保証人になった。1214年には、フリードリヒのブラバントとユーリヒへの遠征に従い、ともにバーゼルへ戻った。1216年にはコンスタンツとユーバーリンゲンの宮廷に、1218年2月にはふたたびハーゲナウにおり、孫のルドルフが5月1日に生まれる少し前のことである。この1218年、皇帝は、その功績により、ウーリの帝国代官職の質権をルドルフに与えた。1222年にはカプアとヴェローリで、皇帝と教皇ホノリウス3世の会見に立ち会った。1224年には、皇帝の子ハインリヒ7世の宮廷のバーゼルとベルンに、息子アルブレヒト4世とともに現れた。1226年には息子とともに、ロンバルディアの反乱が迫るなか皇帝のもとを訪れ、1229年10月23日にはユーバーリンゲンにいた。1230年には、アナーニで、皇帝と教皇グレゴリウス9世が和解したときに立ち会った。三度、イタリアの皇帝を訪ねたことになる。
ルドルフは、シュタウフェン家の出ではないとされるアグネス・フォン・シュタウフェンと結婚した。五人の子が生まれ、ヴェルナーは幼くして死に、アルブレヒト4世「賢伯」とルドルフ3世は成人した。二人の娘ゲルトルートとハイルヴィヒは、フローブルク家の伯に嫁いだ。ルドルフは1232年に没し、4月10日にムーリ修道院に葬られた。アルブレヒトが、スイスとアルザスの所領の大半を継ぎ、ドイツ南部の所領はルドルフ3世に渡って、ラウフェンブルク家の祖となった。アルブレヒトとその子孫は皇帝派につき、ルドルフ3世の子孫は教皇派についた。
同じ年に亡くなった人物
- イドリース・マアムーン (1232年没)
- トルイ (1232年没)
- Peire de Montagut (1232年)
- フォルケ・ドゥ・マルセイユ (1232年没)
- マイケル・スコット (占星術師) (1232年没)
同じ地域に関係する人物
- アグネス・フォン・エスターライヒ (1281-1364) (1364年没)
- アンリ (1638年没)
- マリーア・インマコラータ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ (1874-1947) (1947年没)
- ヴィクトール・コルチノイ (2016年没)
- ハインリヒ・チョッケ (1848年没)