伝記
アグネス・フォン・エスターライヒは、ハンガリー王アンドラーシュ3世の王妃である。ハンガリー語ではアーグネシュと呼ばれる。1281年5月18日にウィーンで生まれ、ハプスブルク家の出である。父はローマ王アルブレヒト1世、母はエリーザベト・フォン・ケルンテンで、2番目の子にあたる。祖父はルドルフ1世である。アグネスは馬上の試合を嫌い、教会の説教を好んだ。身長が低く、姉妹がもう着なくなったドレスを着ていたため、その謙虚さを称えられた。
1296年2月13日、15歳のアグネスはウィーンで、約31歳のアンドラーシュ3世と結婚した。その後、アンドラーシュ3世は舅アルブレヒト1世の支援を受け、ケーセギ・ミクローシュとチャーク・マーテー3世の反乱を鎮めて、ケーセグとポジョニの城を占領した。1298年には、アルブレヒト1世がドイツ王アドルフに対して起こした反乱に、軍を送って加勢している。夫婦に子供はなかったが、アグネスには、アンドラーシュ3世と前妃フェネンナとの間に生まれた継娘のエルジェーベトがいた。
1301年1月14日、アンドラーシュ3世がブダで死去し、アールパード家の男系が断絶した。同時代のイシュトヴァーン・アーコシュは、アンドラーシュを「アールパード家の最後の金の小枝」とよんだ。アグネスは19歳で寡婦となり、アールパード家を継ぐ子もいなかった。再婚して子をもうけることもできたが、再婚しなかった。オーストリアへ戻り、当時8歳だったエルジェーベトと、ハンガリーの宝物を一緒に持ち帰ったという。母エリーザベトとともに、父アルブレヒトが甥のシュヴァーベン公ヨハンに殺された場所にケーニヒスフェルデン修道院を建て、その後援者となった。そして、エルジェーベトとともに修道院近くの小さな館に住み、祈りを中心にした修道女のような質素な暮らしを送った。エルジェーベトはボヘミア王ヴァーツラフ3世との結婚が予定されていたが、ヴァーツラフ3世はヴィオラ・エルジュビェタ・チェシンスカと結婚した。エルジェーベトはその後、結婚せず、近くのテスのドミニコ会修道院で修道女となり、高潔さで名声を得た。
アグネスは敬虔で謙虚な女性だったといわれる。一方、16世紀のアエギディウス・チューディの年代記は、アグネスが父の復讐のために、暗殺者の家族や家臣ら1000人の処刑や追放を命じたと伝えるが、これは大部分がスイスの反ハプスブルクの宣伝に基づくとみられている。その名声のために、何度か仲介を頼まれた。1333年には、ギュメネン戦争の最中にオーストリアとスイスの諸都市や諸地域との間で条約を結ばせた。1351年には、バーゼルとブレーメンの間の紛争を解決し、同じ年に弟のオーストリア公アルブレヒト2世とスイスの間の紛争も収めた。弟たちは、助言を求めてしばしばケーニヒスフェルデンを訪れた。マイスター・エックハルトの『神の慰めの書』は、一部がアグネスへの贈り物として書かれたとみられている。
アグネスは1364年6月10日にケーニヒスフェルデンで死去した。83歳だった。遺体は修道院の修道女墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- 光厳天皇 (1364年没)
- ロベルト (ターラント公) (1364年没)
- Sinanuddin Fakih Yusuf Pasha (1364年)
- ジャン2世 (フランス王) (1364年没)
- アリゼンダ・デ・ムンカーダ (1364年没)
同じ地域に関係する人物
- アンリ (1638年没)
- Gustav Fischer (1990年没)
- ヴィクトール・コルチノイ (2016年没)
- マリーア・インマコラータ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ (1874-1947) (1947年没)
- ルドルフ2世 (1232年没)