伝記
ヴィクトール・リヴォヴィッチ・コルチノイは、1931年3月23日にレニングラード、現在のサンクトペテルブルクで生まれたチェスのグランドマスターである。ユダヤ人の母ゼルダは、イディッシュ語の作家の娘でピアニストだった。父レフはポーランド系のカトリックで、菓子工場で働く技術者だった。両親は1928年にウクライナからレニングラードに来た。両親の離婚後、母と暮らしたが、1935年からは父と祖母のもとで暮らした。少年期の第二次世界大戦中、ドイツ軍のレニングラード包囲戦を疎開することなく同地で過ごし、1941年に父が戦争で亡くなった。その後は継母が養育した。レニングラード大学の歴史学科を卒業している。
5歳のときに父からチェスを習い、1943年にレニングラードのピオネール宮殿のチェスクラブに入った。1947年にソ連のジュニア選手権で優勝し、翌1948年にも共同優勝した。1951年にソ連のマスターの称号を得て、翌1952年にソ連選手権の決勝大会に初めて進んだ。1954年には国際大会で単独の首位となり、国際マスターの称号を得た。1956年に25歳でグランドマスターとなった。ソ連のチームの一員として、1954年から1974年まで国際大会に出場し、団体で21個のメダルを獲得し、ソ連チームの一員としてヨーロッパ選手権で5度、オリンピアードで6度の優勝を果たした。
コルチノイは世界選手権の挑戦者決定戦の常連で、合計10回出場した。1968年の決勝ではボリス・スパスキーに6.5対3.5で敗れ、1974年の決勝ではアナトリー・カルポフに敗れた。コルチノイに勝ったスパスキーとカルポフは、それぞれ翌年に世界チャンピオンとなった。ドローを嫌う棋風で、「ソ連のフィッシャー」と呼ばれた。亡命するまでに、ソ連チャンピオンに4度なった。1975年とも1976年とも伝えられる年にオランダに亡命し、チグラン・ペトロシアンらソ連の選手たちから批判された。のちに西ドイツ、さらにスイスに移り、1980年にスイス国籍を取得した。
1978年に世界チャンピオンのカルポフへの挑戦者となったが、5勝21引き分け6敗で敗れた。試合後、カルポフの随行の心理学者が観戦席の最前列で陽動作戦を行い、催眠術まで仕掛けてきたと非難した。1981年に再び挑戦者となったが、2勝10引き分け6敗でまた敗れた。棋風はオールラウンドながら、相手の攻撃を待ち受けての反撃を得意とし、特に複雑な局面の中終盤に強かった。全盛期には「白番では相手にチャンスを与えずに勝つ。黒番では相手にチャンスを与えるが、やはり最後は勝つ」と言われた。世界王者にはなれなかったが、高い棋力を長く保ったことで知られる。2006年には世界シニア選手権で優勝し、2007年1月のレイティングでは75歳で世界85位となって、ベスト100に入った最年長の選手となった。80歳を迎えた2011年も現役で活動を続け、2016年6月6日に85歳で亡くなるまで、国際チェス連盟のウェブサイトで確認できる最年長のアクティブな選手だった。ルークを使った終盤についての本と、ベストゲーム集を出版している。
同じ年に亡くなった人物
- Bronislaw Baczko (2016年没)
- Anatoli Isayev (2016年没)
- ジョージ・マーティン (2016年没)
- Gian Luigi Rondi (2016年没)
- パット・ハリントン・Jr. (2016年没)
同じ地域に関係する人物
- アンリ (1638年没)
- アグネス・フォン・エスターライヒ (1281-1364) (1364年没)
- ルドルフ2世 (1232年没)
- Gustav Fischer (1990年没)
- ハインリヒ・チョッケ (1848年没)