伝記
トルイは、1192年に生まれ、1232年10月9日に没したモンゴル帝国の皇族で、チンギス・カンの四男である。ジョチ、チャガタイ、オゴデイの弟にあたり、名は中世モンゴル語で「鏡」を意味する。日本語の文献ではトゥルイとも書かれる。子孫が第4代以降の皇帝位を世襲したため、睿宗の廟号を贈られ、景襄皇帝と諡された。
幼いころから英邁で武勇に優れ、人望も厚かったという。正妻ボルテの末子であったことから、末子相続の慣行に従って、父の死まで自分のウルスの分封を受けず、父の手元にとどまり、帝国の最有力皇族であった。『元朝秘史』には、幼少期に滅ぼされたタタル部の残党に襲われたが、ボロクルの妻アルタニとジェルメ、ジェデイに救われたという逸話が伝わる。1206年の帝国建国後、チンギス・カンは諸子諸弟に民を分け与えたが、トルイだけは父自身が率いる民を相続することが予定されていた。
1212年に始まる第一次金遠征では、チンギス・カン自らが指揮する中軍を率いて常に父の傍らに仕え、河北から山東にかけての征服で勝利を重ねた。野狐嶺の戦いののち、チグゥ・キュレゲンとともに要衝である徳興府周辺の諸城を平定したことは、諸史料で特筆されている。1219年にホラズム・シャー朝遠征が始まると、再び中軍を率い、ブハーラーやサマルカンドなどマー・ワラー・アンナフル地方の都市の征服で指揮をとった。1220年秋には、アムダリヤ川を渡ってホラーサーン地方へ派遣された。ニサ、メルヴ、ニーシャープール、ヘラートなどを征服したが、激しい抵抗に会い、降服勧告の使者が殺されるなど苦戦し、都市陥落の際には殲滅戦になり、投降した住民を虐殺して報復したともされる。翌1221年、ジャラールッディーンが挙兵してチンギス・カンが迎え撃った際には、ホラーサーンに留まって本軍の後詰めを守った。1225年暮れに始まる西夏遠征でも、翌年2月にオゴデイとともに父に随行して侵攻している。
1227年にチンギス・カンが没すると、家産と直轄ウルスの101個千人隊に相当する部民と軍隊のすべてを相続し、親族の中で飛び抜けた財力と軍事力を得て、後継のカアンが決まるまで帝国の政務を代行する監国となった。この時期には、反モンゴル運動を始めた地域へタンマチを派遣している。そして2年後、自らの即位を固辞し、父が生前に後継者に定める意向を示していたという兄オゴデイを推した。『世界征服者史』によれば、1229年9月のクリルタイで、チャガタイとテムゲ・オッチギンがオゴデイの手を取って玉座に導き、中軍を代表するトルイが祝杯を捧げてオゴデイが即位したという。
オゴデイの即位後、最初の大事業である第二次金朝遠征で、トルイは右翼軍を率いた。これは最大の勢力を持つトルイを配下の諸将から引き離す意図があったと考えられている。1232年、三峰山の戦いで完顔陳和尚率いる金軍を破り、その主力を壊滅させた。だが、オゴデイの本軍と合流して帰還する途上、モンゴル高原で急死した。深酒のためと言われるが、『集史』や『元史』は、病に罹ったオゴデイの身代わりとなって呪いのかかった酒を飲み干して死んだという逸話を伝える。これらはトルイ家の政権で編まれた史料で、トルイ家こそ正統だとする見解が反映されたものと指摘され、弟を恐れたオゴデイによる謀殺とみる説もある。
莫大な遺産は、ケレイト部出身の妃ソルコクタニ・ベキを経て、息子のモンケ、クビライ、フレグ、アリクブケに継承され、のちの大元とイルハン朝の基盤となった。
同じ年に亡くなった人物
- Peire de Montagut (1232年)
- フォルケ・ドゥ・マルセイユ (1232年没)
- ルドルフ2世 (1232年没)
- イドリース・マアムーン (1232年没)
- マイケル・スコット (占星術師) (1232年没)
同じ地域に関係する人物
- 周有光 (2017年没)
- 喬石 (2015年没)
- ジュゼッペ・カスティリオーネ (1766年没)
- 趙紫陽 (2005年没)
- 袁世凱 (1916年没)